◆4話◆姉夫婦の関係Ⅱ
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午後を回った時間に、私は家を出た。
何処に行くのかと姉に聞かれ、友人の家と応じたのは思いやりと云うもので、事実は義兄と逢う為である。
義兄に逢う時の常で、車は先に帰した。しかし今日は、玄関まで送って貰うのは不味かろう。
門の手前で義兄には帰って貰う事にしよう。等と、私は帰宅時の心配りをしつつホテルのロビーにて義兄を待った。
「やあ、お姫様。また待たせちゃったね。」
済まなそうに謝る義兄に、首を振って立ち上がる。
義兄に対する私は、出来るだけ素直に心を曝す事にしている。
義兄は素直な人間が好きだ。彼は鏡の様な人で、相手を素直にさせる穏やかな人柄は、だが頑なな相手には幾らでも非情になれる一面も持つ。
少なくとも仕事上は。
それくらいでなければ、父が姉の相手に選択する訳もない。
私は、彼の優しい人柄を愛してるから、そんな一面と遭遇する気は無かったのだ。
実際。
姉がいつ見限られるか、私は気が気では無い。
今なら間に合う、が、義兄の心境が変化すれば、姉がどんなに素直になっても駄目になる日が、いつかは来るだろう。
現に、義兄は姉に対抗して嫌味を発する様になったではないか。
「お義兄さま。緑さんと喧嘩なさった?」
「………何故?」
笑顔が引き攣り、義兄は僅か乍ら狼狽した。
その頬に目立つ程では無いが、痣があるのだ。
転んだり、アクシデントに依る類いの傷で無いのは、何となく解ってしまう。そして、姉との冷え冷えとした諍いで、怪我をする筈もない。
それに、昨夜は香水を香らせて帰宅したと云うではないか。
じっと見上げる私に、義兄は溜息を零した。
「どうして解るのかなぁ。」
穏やかな優しい声が、諦めた様に云って歩き出す。
差し延べられた手に掴まり、私は尋ねた。
「緑さん、お元気?」
「ああ。いらない程ね。」
うんざりした声に同情を覚えた。彼には女難の気が有ると私は考える。
だが、これは希望だ。姉の為には、彼が他の女性と倖せに成るのは歓迎出来ない。
「食事とお茶はどちらにしますか。お姫様?」
「お茶。」
「じゃあティー・ラウンジにしようか。」
こっくり頷いた。
今日は少々食べ過ぎた気がするので、お昼は遠慮したい気分だった。遅い朝食だったし。
「何が良いかな。お茶が済んだら服でも見に行こうか?それとも玩具が良いかな?」
「ううんと……。本が良いかも?」
「また僕に理解出来ない物を買うんだね?」
少し哀しそうな表情で、義兄が云う。
いや。あれは。あの作者があんな話を書くとは、私も………。まあ義兄との親しみが増したから結果オーライだ。
義兄は私の過失を揶揄う種にしたらしい。
それ以来、私は遠慮なく読みたい本を手にする事にした。
結果オーライだけど……ちょっぴりムカつく。
悪かったな!変な趣味で!!
ふうっとか、わざとらしい溜息吐くし。
まあ、良いけど。
別に良いけど……。
私は多分、揶揄われるのは好きでは無いと知った。
でも義兄の事は結構好きだから許すよ。うん。
「お義兄さま?少しばかり失礼かも、とは思われません?」
私は一応の反論を試みる。愛らしく見えるだけと知りつつ、柔らかい口調で、少し睨む様に見上げた。
案の定、義兄は可愛くてならないと云わんばかりの眼差しで私を見た。
気安い云い合いも楽しいらしく、気取りない笑顔が浮かぶ。
「でもねえ、10才の子供が読む本でも無いでしょう。君のは。」
「大人も子供も楽しめる本なら、無駄に棄てる事も無いでしょうし、良い事ですわ。」
澄まして応えれば、クスクスと笑う義兄。
「だから、子供は読まないって。」
「読んでますわよ。」
「だから理解出来ないと云ったんだろう?時々本当に理解出来ないものも読むし。」
後半は少々困惑気味に云われた。はて?私は専門書の類いは流石に強請った事は無いのだが。
「女の子同士の恋愛小説なんて、今から読んでちゃダメだよ?」
的は私の失策だったよ。
じゃあ最初の話題は何に対する感想だったのさ?
「う………!あ……あれは。」
「あれは?」
多少狼狽した私に、義兄は微笑んだ。割かし食えない人だったりするのである。
「今がダメなら、いつなら宜しいんですの?」
「……うう〜ん。」
私も反撃は忘れない女です。子供相手に揶揄いたおす事など出来ないと思し召せ。
なんちゃって対決だけどな。
私の前に居る義兄は、いつめ優しくて穏やかな人だ。非情な顔はプライベートでは見せられた事がないと云う話だが、この先もそうだとは限らない。
私は姉の為に、我が家の為に、そして義兄の為にも祈る日々である。
どうか義兄が優しい内に、姉の態度が改まります様に。
義兄は私の心配も知らず、呑気に考える。
解答を思い付いたらしく、ポンと手を叩いた。
「16才ってのはどうだろう?」
「その心は?」
「親の許しが有れば、結婚も出来るし。」
「普通、女の子同士の結婚を許す親がおりますかしら?」
困惑混じりに首を傾げて見せたら、義兄は人差し指を立てた。
「君のお父さん辺りは許すタイプと見た。」
それはまったく図星に近くて、私は吹き出してしまった。
二人して笑っていたら、アイスクリームのクレープが来た。義兄には珈琲。
冬の最中にと笑われたが、暖房が効く室内で食べるのが良いのだ。
私は冷たいスイーツを堪能した。
此処のケーキやパフェは絶品だといつも思うが、アイスクリームも当然の様に美味しい。
至福かも。
私は基本的に食いしん坊なのだな。
「美味しそうに食べるねぇ。」
スイーツにうっとりしている私を見て、義兄は嬉しそうに笑う。美味しそうに物を食べる人間を見るのは、彼の楽しみのひとつである。
良い趣味だ。うん。
此処で、姉さまも美味しそうに食べる等と云えば、機嫌が悪くなるかなぁ、やっぱり。
本当の事だけれど、義兄にとっては偽りだものね。
「赤ちゃんが、出来たんですってね。」
「………加那子さんは、やはり塩野の家に帰ってるのか。」
少しばかり苦々しい口調と表情だった。困惑は一切なし。怒り少々、根っこは……苛立ち…かな?
ふうん?やっぱりなあ。
「お義兄さまは、姉さまの事がお嫌いではないのね。」
苛立ち怒ったりはしても、嫌悪はしない。
一度惹かれた相手は、嫌いには成り切れないものなのだろうか。
だとすれば世の中もう少し倖せなカップルで溢れてる気がする。これは義兄の寛大さと云うものだろう。
そう考えると、却って気の毒な感じがする。
「嫌いじゃない?」
ムッとした様に義兄は繰り返す。「冗談だろ?」とでも云いたげな口調だ。
彼は思い切り否定しようとして、私の立場を思い出したらしく、様々な言葉を口にしたい気持ちを堪えた様だった。
別に良いのに。
「疎ましいとは感じても、嫌悪なさってはいないのね。」
「何を云って………。」
義兄は戸惑う表情を見せて、口篭る。
反論するかと思ったが、子供の戯言を怒るでも無く考え込んだ。
義兄は少し哀しそうに笑った。
「そうかも知れない……とは思うけどね。彼女があのままなら、愛せないのも確かだよ。」
私はびっくりした。
眸を丸くして、マジマジと義兄を視つめたと思う。
スプーンを口から引き抜くのももどかしく。
「愛する気は有るんですの!?」
辺りを憚りつつも、勢い込んで尋ねた。
やっぱり今なら間に合うのね!?
「…………君は。」
眉を寄せ、困った様な顔をして、義兄は長い長い溜息をついた。
「君ねぇ。」
「はい。」
ドキドキと言葉の続きを待つ私に、義兄はまた溜息を零して苦笑した。
テーブル越しに腕が延ばされ、掌がそっと頭に触れた。
びっくりした。
私の頭を撫でようなどという人が、未だ存在するとは。いったい何年振りだろう。
キョトンとした顔を、していたかも知れない。
義兄は眸を瞬く私を見て、優しい眼差しで困った風に微笑した。
「そうやって子供の顔をして。君が未だ10才の子供だというのは、一種の犯罪だと思うね。」
犯罪と云われても……。
それは私がどうこう出来る問題では無い。
その言葉自体は嫌な感じだが、口にした義兄の表情は優しい。
別に、今更気持ち悪い子供だと思う風でも無いし、そんな人でも無い。
「早く大人になりなさいね。この手の話は、もう少し………場所柄と云うものが有ってね。」
「………TPOがなってないって事?」
大人って解らない。
なら、どんな場所なら良いのだろう。私の困惑に義兄は頷く。
「そう。こんな明るい場所で、昼間っから話す事では無いね。例えば、静かな店で、酒でも酌み交わしつつ、静かな声で語り合うものだ。」
「そんな相手居ないのに?」
「う……それはねぇ。………居る様には見えない?」
義兄は情けなさそうに尋いて来た。いや。心配しなくても義兄の人格に問題は無い。
友人も沢山居るだろうと思う。
ただ、そうして愚痴を聞いてくれる相手が居ないだろうと気付いたのは、他ならぬ義兄の発言に因る。
どうやら無意識らしいが、「と、思うよ?」等と自信が無さそうに呟いたから、居ないんだなと思っただけだ。
義兄が気付かない発言を、親切に教える事はしない。
手の内を隠すのは私の第二の習性だった。
人間と云うのは単純なもので、隠し事が通じない相手だと思ったら、そもそも隠す事自体を止めてしまう場合が多々有る。
それが無意識の場合は、やっぱり隠せないと認識を深める事になる。
義兄も、私の幼さに油断して嵌まった罠だった。
私以外の相手なら、義兄は自分の言動を振り返り、失言に気付いた筈である。
現在の義兄は私に秘密は持てないと、すっかり信じているのだ。
うん。大丈夫。別に情報悪用しないから。今のところ夫婦の話題しか無いから、しようとしても出来ないけど。
しかし、子供の言葉にそんなに落ち込まなくても………可哀相になったから云った。
「ええと、いらしたら……私相手に、そんなお話をなさらないかな………と。」
「そう。まあ、それはそうなんだけど……。」
納得してない口調だった。俺って人望無さそうかな……等と呟いたりしている。
私は、もう少し適当な理由をでっちあげる修業の必要性を感じた。
義兄の名誉の為に云うなら、この人は人望を誠意で勝ち取るタイプだった。仕事では非情な一面を持つと云ったが、それさえも被害を広げないタイプだと父が云っていた。
『性格は甘ちゃんだが、為すべき時は完膚なき迄に叩く。一点集中攻撃型だな。後のフォローも完璧だ。多分、自分の名を守る為では無く、周囲の為にしてる様だが……まあ結果が同じなら良いだろう。』
父の評価は身も蓋も無かった。
だが、良い人なのは絶対だ。
あれだ。
相談事とかされて、親身に聞いて上げるタイプの人よね。
多分、この人が愚痴を零す相手が居ないのは、頼られる所為も有るに違いない。
あ、これをそのまま云えば良いのよね。
「お義兄さまは、ご自身が愚痴を零されるより、聞いて差し上げる人に見えるし。」
このフォローは悪くなかったらしい。
事実は強いのね。
嘘はやはり見破られるものでしか無い。
私が下手なだけかも知れないけど………。
そう?等と安堵すると共に、満更でもなさそうな義兄を視つめて私は考えた。
しかし。
子供の発言に振り回され過ぎだろう。
私の周囲の人間は、大抵私を買い被るが、義兄も大概その傾向が深い。
確かに私が誘導したのも有るが………所詮子供だから、そんな大した人間でも無いんだけどな。
普通は子供の意見など聞き流すものだが、それをしない周囲の大人たちは、それだけ人間が出来ていると云う事かな。
それとも変な大人が私の周囲に多いだけだろうか。
私の判断を迷わせる議題だが、今考える事はそんな問題では無かった。
姉とこの人の結婚生活だ。
少なくとも希望が無い訳ではないのだと思えば、私はやっぱり嬉しかった。
元々、姉の為にこの人に気に入られ様としたのだが、義兄の人柄は私の好意を本物にさせた。
勿論、姉の事は大好きだから、その二人が仲良くしてくれるなら、それに越した事はない。
姉には、もう少し素直になって貰わねば。
そんな事を考えつつ、私は帰宅したのだ。
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