◆10話◆静さんの心変わり?
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目覚めた時、隣に静さんは居なかった。
想定通りとも云えたが、少しだけ淋しいと感じた。
もしもこれが他の相手なら、こんな感情は湧かないだろうと思う。
例えば省悟なら。彼はこんな仕打ちをしないだろうが、もししたとしても、私は怒るだけだろう。
――私はどうして怒らないのだろう?
こんな目にあって。あんな風に私を見下す男に、何故立腹しないのか。
そう考えると泣きたくなった。
――好きだから?
莫迦莫迦しいと思う。つまらない感情だ。
しかし、胸が締め付けられる様な、嫌な感情がある。
――恋なんか、したって意味は無いのに。
それは、理性を奪う感情を呼ぶ。それは自分を縛る枷にしかならない。
だから恋などしない。
頑なに考える気持ちを嘲笑うが如く、理性を押し退ける感情が奔るのだ。
――面倒な。
苦しくて、泣き出したい気持ちは、自尊心を傷付けられた痛みよりも、傷付けられて尚、惹かれる自分が情けないからだ。
悔しくて切ない。
省悟の時は、ただ困惑するばかりで、甘い関係に尻込みする自分に呆れはしても、認めずに生きていられた。
知らない振りが出来た。
――障害が有ると燃えるって云うのと、似てるのかしら?
ただ安穏としていられた、ぬるま湯で甘やかされた関係なら素知らぬ振りで無視した感情である。今無視出来ないのは、苦しいからだ。悔しいだけで無く、悲しいからだ。
――けれど、プライドを保つ為の争いは愚かの極みだ。
多分、このどうして良いか解らない感情が、姉夫婦の諍いの原因なのだと、私は理解した。
本当の意味で、やっと解った気がした。
――ならば。私は姉と同じ愚は冒すまい。
せめて、争う事だけはすまいと考えた。
けれど、理性の言葉は心に響かない。
彼は何故。
――私を憎むのだろう?
頬に泪が伝うのを感じた。
無意識に泣く自分は久しぶりだと思った。
彼が私を求めている事は気付いていた。だから安心していた。けれど、同じくらい嫌悪されている事も、また知っていた。
――別に、大した事とも思わなかったのに。
実際に、身体に教えられたら堪えた。傷付いた自分の心にこそ衝撃を受けてしまった。
――莫迦らしい。
そう考え乍ら、愚かな感情に流されそうになる。
――どうせ憎まれるなら、更に深く徹底的に憎まれるのも良いかも知れない。………なあんて莫迦な事を考えたらダメ。
愚かな感情。
しかし理性の声よりも、余程響く声だ。
彼が私を憎む理由は何だろう?
私はそれを排除しなければならないと思う。
多分、この愚かな感情は、嫌悪された屈辱と憎まれる事への悲しみが原因だからだ。
実際、彼は都合の良い男とは云い難い。
条件は満たしているし、理性が見る限りは100点に近い男性だが、感情面ではどうだろう?少なくとも、私の云いなりになる男では無い。
私に夢中だった省悟とは違う。
なのに、私は静さんを選んだ気持ちに、後悔さえ抱けないでいる。
――後悔なんか、した事は無いけど。
反省はしても、本当の意味で後悔などはしない。
しかし、いくら決意し実践しても、思い通りにならない事も有る。
単なる意地かも知れない。後悔した事は、即座に忘れ、前向きな考えに切り替えるだけだ。
後悔した方が、余程楽な生き方かも知れないとは、時々思うけれど。
それでも私は選択した生き方を変える気は無い。どんな眼差しで視つめられても、私は揺らがず気付かない振りが出来る筈だ。
そう考えた。
まさか、向けられた眼差しがあんなものだとは想像出来なかったのだ。
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陽は既に高い。
私は混乱した。
困惑した、と云い代えても良い。
静さんは優しくなってしまった。
やたら甲斐甲斐しく世話を焼かれて、私は内心嘆息した。
ある意味ではかなり立腹したのだが、目覚めた時に一人で考える時間が有った事が、理性を保つ助けになった。
バルコニーで頭を冷やしていると、室内に人の気配を感じた。
静さん以外では有り得ないから、多少怯みはしたが、そろそろ室内に戻るべきタイミングでもあった。
明るい真昼の景色でも、この季節は未だ肌寒い。
此処で愚図愚図して風邪でもひいたら、体調管理も出来ないと莫迦にされるだろう。
少なくとも私なら莫迦にする。
気持ちは落ち着いたが、蔑む眼差しに立ち向かうのは、未だ気が重い。
そんな我慢をしてまで、まだ静さんを好きな理由が解らなかった。
もしかしたら私は被虐の趣味でも有るのだろうか。
――恵美さまは同類扱いするけど。
サディストの友人の言葉は、常に否定してきた。私は暴力的な嗜虐癖は持たない。好みの男性が自分だけに見せる弱味や弱気にドキドキするだけだ。それは極めて普通の乙女心だろう。
そして、当たり前だが暴力を奮われるのも嫌だと思う。痛みに泣く気は無いが、我慢する気持ちも更々無い。
やられたら絶対報復するのが私だ。
その筈だ。
だが、静さんに出逢ってからの私は甘んじて痛みに耐えている。
屈辱と苦痛に心が苛まれるのを良しとする訳でも無いが、後日の報復すら私は思い至らない。
更なる憎悪を一瞬望んだのは確かだが、それは報復を目的としたものですら無い。
恥ずかしい話だが、静さんの愛情が半端に思えて、その天秤を揺るがしたい衝動に駆られたのだ。
静さんの心の天秤。
私は静さんに愛されている事を疑う事は無い。
恋に理解と共感を示す気は無いが、その気持ちを「知る」事は必要だった。私の気持ちでは無い。相手の気持ちだ。
私は省悟の気持ちを「知る」。その執着と愛情と情熱と呼ばれる恋を知る。
省悟は婚約を解消した現在でさえ、気持ちを抑え様ともしない。
私になら何をされても怒らないし、嫌がりもしない。私の望みなら、何でも叶えようと躍起になる男だ。
同じように、静さんの気持ちを知る。
私に惹かれる気持ちを、常に抑制する彼を知る。
理性を保ちたいのに保てず、私を憎む彼を知る。
愛してるから全てを許す省悟とは違い、愛してるから許せないと憎む静さんを、私は知っている。
――ただ。その意味はよく解らない。
省悟の気持ちは理解出来なくとも、知ればそれだけで手の内に取り込めた。簡単に操れたのは、省悟が「操られてくれた」、とも云える。
静さんは難しい。
天秤が揺らぐのが、時にまどろっこしい。
片方に傾けたくなる。
そして、愛より憎しみに傾ける方が、余程簡単そうなのだ。
誰よりも強い感情を向けられたいと願うのは、きっと独占欲と呼ばれる感情だと思う。
――私なら、姉さんよりも余程上手く憎まれ役を演じる事が出来る。
姉の気持ちも少しは理解したが、姉は憎まれる事すら失敗している。
きっと彼女は、愛されたい気持ちにも揺らぐからだろう。
――私はそんな半端はしない。
しかし、そんな「夫」は不要だ。
だから思い止まる。私は自分の役目を忘れたりしない。
だが。
そんな衝動を抑える必要も、もはや無い。
静さんは変わってしまったから。
バルコニーで深呼吸して、私は振り返った。
彼が室内をぐるりと見回していた。
不安そうに見えたが、勿論気の所為だろう。
――何?
私が室内に戻るのと、彼がバルコニーに視線を向けたのは同時だった。
一瞬視線が交わり、彼は安堵の感情を眸に宿した。
戸惑う私に静さんは云う。
「朝食を用意した。」
「はい。」
優しい声を初めて聞いた気がした。
男の人は、その「行為」の後で態度が変わると云うが………それだろうか?
しかし、世間話に聞くそれとも、少し意味が違う気がした。
「紅茶で良いですか?」
「はい。」
変な人だ。
甲斐甲斐しく世話を焼かれて、私は途方に暮れた。
――先刻までの悩みは何だったのかしら。
何故こんなにも変わるのだろうか。
罪悪感さえ、その眸に感じ取れた。
何故罪の意識など感じるのだろう。
――解らない。
私は、この人をどうしたら本当に手に入れる事が出来るのだろうか。
憎悪の方が、まだ静さんの執着を感じられた。
その罪悪感は迷惑だった。
「片付けて来ます。待っていてくれますか?」
「はい。」
逆らう理由も無いから、いつも通り頷いた。
わざわざ部屋まで朝食を運んだのも、今までの静さんの態度からは想像出来ない。
いや。
もしかしたら、今日だけかも知れない。
いきなり人間は変わらない筈だ。
何かしら理由が有るにしろ、きっと明日には元に戻るだろう。
その理由を予測すれば怒りが湧くから考えたくは無い。
気付きたくも無い理由を、私は頭の隅に追いやった。
明日が無理でも、じきに戻る筈だと思った。
――意味が解らない。
まさか、ずっとそのままだなんて思わなかったのだ。
お陰で憎まれ役計画に対する衝動は消えたが、正直に云うなら、誘惑はより強くなったのも確かだった。
優しい静さんは、何故だか今までより遠く感じられた。
その理由。きっかけのひとつで有る筈の理由に対する怒りも、些細な事に感じられるくらい。
静さんは変になってしまった。
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