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来なかった婚約者

約束の時刻を、鐘が一つ過ぎていた。


 王都でも有数の劇場を前に、エリシア・アルセインは通りの向こうへ目を向けた。開演を待つ人々が次々と正面扉へ吸い込まれていく中、王家の紋章を掲げた馬車だけが、いまだ姿を見せていない。


 もっとも、それだけなら珍しいことでもなかった。


 エリシアの婚約者であるレオンハルト・グランツは、この国の王太子だ。急な政務や予定の変更など、これまでにも何度かあった。


 だからこそ、エリシアは焦ることなく待っていた。


「エリシア様」


 聞き慣れた声に振り返る。


 人混みの向こうからこちらへ歩いてきたのは、王太子付きの従者、フェリクス・ハルトマンだった。いつもと変わらぬ整った身なりで、エリシアの前まで来ると深く頭を下げる。


「お待たせして、申し訳ございません」


「フェリクス。殿下はまだお見えになっていないようですが・・・?」


「それが、急な公務が入り殿下はお越しになることができません」


 その言葉を聞いてエリシアは劇場を振り返った。


 今日上演される演目は、以前からレオンハルトが見たいと言っていたものだった。互いの予定を合わせるのに随分時間がかかり、ようやく取れた一日でもある。


 残念ではある・・・


 けれど、それで忙しい彼にわがままを言ってしまうのは別の話だ。


「そうでしたか。それでは仕方ありませんね」


「……申し訳ございません」


「フェリクスが謝ることではありませんわ。殿下にも、どうかお気になさらないようお伝えください」


「承知いたしました。確かに伝えさせていただきます。」


 フェリクスが再び頭を下げたそのときだった。


 ほんの一瞬だけ、彼の視線がエリシアから逸れた。まるであまり見たくない何かを見ないようにしたような・・・不自然な動きだった。


 エリシアは少しだけ首を傾げたものの、王太子の予定が突然変わったのであれば従者である彼にも相応の慌ただしさがあったのだろう。そう考えれば、取り立てて問いただすほどのことではない。と考え何も言わなかった。


「では、私は屋敷へ戻ります」


「馬車までお送りいたします。冷えて参りましたから急ぎましょう。」


「大丈夫です。すぐそこですから」


 フェリクスに見送られ、エリシアが馬車に乗り込もうとしたとき、通りの向こうから一台の馬車が近づいてきた。


 濃紺の車体に豪華な扉には見間違えようもない王家の紋章が刻まれている。


 エリシアは足を止めた。馬車はゆっくりと劇場の正面へ寄せられ、御者が手綱を引く。先に扉が開き、中から一人の青年が降り立った。


「……殿下?」


 思わず声が漏れる。


 金色の髪に、均整の取れた長身。何年も婚約者として隣に立ってきた相手を、エリシアが見間違えるはずはない。


 レオンハルトその人だった。


 急な公務が入ったと、たった今聞いたばかりの婚約者が、劇場の前に立っている。彼は周囲を見回すこともなく、降りてきた馬車へ振り返った。


 そして、片手を差し出す。


 白い手袋に包まれたその手へ、馬車の中から細い指が重ねられた。先ほどまでとは違う意味で、エリシアの足が止まる。


 続いて降りてきた少女の顔にも、見覚えがあったのだ。


 柔らかな亜麻色の髪に華奢な身体を包む淡い桃色のドレスの姿はまさしく十五歳を迎えようとしている、自分の妹


 ミレイユ・アルセインだった。


 レオンハルトは、その手を取ったまま妹を馬車から降ろしていた。


 ここからでは声までは届かないが、二人が何かを話しながら歩いて劇場に入っていく。そして少なくともミレイユが微笑み、それを見たレオンハルトも僅かに表情を和らげたのは分かった。


 エリシアは、しばらく何も言えなかった。


 見間違いなどでは断じてなく、別人だと考える余地もない。


「……何か事情があるのでしょうか?」


 口にしてみると、それが一番自然な答えに思えた。王家からアルセイン公爵家へ何らかの用向きがあったのかもしれない。


 あるいは、急な公務というものにミレイユも関わっているのだろうか?


 王太子であれば、すべての事情を婚約者へ話せるとは限らない。急を要する事柄なら、説明する暇さえなかった可能性もある。


 王太子としての彼がミレイユと一緒にいる理由など、いくらでも考えられる。


 だから、二人が一緒にいるという事実だけでレオンハルトを疑うつもりはなかった。幼い頃に婚約が決まってから、長い時間を共にしてきたのだ。政略によって結ばれた関係ではあっても、レオンハルトはいつもエリシアの意志を尊重してくれた。王太子妃教育に励めば努力を認め、聖魔法の技量を褒めてくれたこともある。


 少なくとも、エリシアはそう思っていた。


 ――でも、それならなぜ私には急な公務だと言ってミレイヤのことを言伝てくれなかったのかしら?


 ミレイユを伴う必要があったのなら、それも隠すようなことではない。答えを考えようとしたところで、劇場の係員が二人を中へ案内していく。


 人目の多い劇場前で王太子を呼び止め、もしただの行き違いであれば、それこそ無用な騒ぎになってしまう。


「……明日にでも、お聞きすればいいことですわね」


 そう呟いて、エリシアは踵を返す。だが馬車で屋敷に戻るまでの間、頭の片隅には先ほどの光景が残り続けていた。


 思い返してみれば、最近のレオンハルトには以前と違うところがいくつかあった。


 王宮で顔を合わせても、用事があると言って早く席を立つことが増え、以前なら数日のうちに返ってきていた手紙も、最近は返事を待つことが多い。


 先月には、二人で出席する予定だった催しも急な事情を理由に断られた。


 それぞれを一つずつ見れば、おかしなことではない。


 王太子なのだから年齢を重ねるにつれ政務が増えることも、責任が重くなることも当然だろう。


 エリシア自身、そう考えていた。


 ただ、その一方で最近、ミレイユが王宮へ出入りする機会も増えている。


 妹も社交界へ出る年齢になったのだから、公爵家の令嬢として王宮へ招かれること自体に不自然さはない。


 しかし、今日の光景と並べてしまうと、これまで別々だった出来事が、少しだけ違って見えてしまう。


「…………」


 馬車へ乗り込んだエリシアは、膝の上で指を組んだ。今日の出来事は偶然や事情という言葉で説明できる範囲のものだ。しかし、それでも何も気にならないと言えば嘘になる。


 帰宅したエリシアは、自室へ戻るより先に訓練場へ向かった。


 今日の予定は観劇だけではない。元々午後からは聖魔法の鍛錬を行うつもりだった。


 殿下には殿下のお役目がある。


 ならば、自分は自分の役目を果たせばいい。


 考えても答えの出ないことに時間を使うより、今できることをする。それが、幼い頃から身についたエリシアのやり方だった。


 訓練場の中央には、黒布に覆われた小さな台が用意されている。


 教師が布を外すと、その下から黒ずんだ金属片が現れた。


「本日は、この呪物を用いて浄化の訓練を行います。」


 手のひらほどの大きさだが、近づくだけで空気が重く感じられる。


 長く魔力を浴びて変質した品らしい。


「浄化だけで構いませんか?」


「ええ。ただし、外側だけ清めても内部に穢れが残れば失敗ですからね」


 その言葉にエリシアは頷くと、金属片の前へ立ちゆっくりと手をかざして呼吸を整える。


 魔法に必要なのは、ただ無闇矢鱈に魔力を多く注ぐことではない。呪いの本質を捉え、必要な場所へ必要なだけ力を通す。


 それを、何度も教え込まれてきた。


「《聖浄》」


 淡い光が掌から広がった。


 白い輝きが金属片を包み込み、表面へ染みついた黒い濁りを少しずつ削り取っていく。しかしエリシアはそこで魔力を止めなかった。


 ”表面が清められただけでは足りない”


 金属の奥に沈んでいた穢れを探り、その一点へ意識を集中させる。


 すると光がわずかに強まる。


 次の瞬間、金属片から黒い靄が細く立ち上り光の中で鈍い音を立てながら消えた。


 訓練場に漂っていた重苦しさも同時に薄れていく。


「……これでいかがでしょう?」


 エリシアの声と同時に教師が金属片を確認する。そして何度か角度を変えたあと、感心したように息を吐いた。


「完全に浄化されています。・・・残留反応はありません」


 その答えを聞き、エリシアはようやく小さく息をついた。


「以前より魔力の通し方が滑らかになりましたね。この規模の《聖浄》をこれだけ余裕を持って行えるのであれば、既に一級聖術師にも劣りません」


「ありがとうございます」


「ふふふ、もっと喜んでもよろしいのですよ」


 教師の言葉に、エリシアは少しだけ笑った。


「内部を探る際、最初の一度で呪いの核の場所を絞れていれば、もう少し消費を抑えられたと思いますがいかがでしょうか、せんせい?」


「相変わらずですね・・・ええ、仰るとおりです。次からはもう少し魔力を薄く拡げることを意識すればいいでしょう。ただ、貴方のその向上心にはいつも本当に感心させられます。」


 聖属性適性が高いというだけで、何もしなくても技量が伸びるわけではない。幼い頃から、その意識だけは変わらず心の内にあり、未来の王妃としての努力を惜しむことをしたくなかった。


 鍛錬を終える頃には、劇場で見た光景も少し遠くなっていた。


 けれど完全に忘れたわけではない。


_________

 夕食を終えたエリシアは、父ベルナールの書斎へ呼ばれていた。


「明日のミレイユの誕生夜会で《清魔の儀》を行う」


 机の向こうで書類へ目を落としたまま、父は切り出した。


「清魔の儀ですか?」


 エリシアはわずかに目を見開いた。清魔の儀そのものは珍しいものではない。


 聖魔法の名門であるアルセイン家では、十五歳になった長氏の聖属性適性を正式に測定する。それが慣例だった。エリシア自身も、十五歳のときに同じ儀式を受けている。ただ、ミレイユがこれまで聖魔法で特別な才能を示したことはなかった。


 不得手というほどではないが、父がわざわざ前日の夜に自分を呼び出して告げるほど、家中が注目している様子もこれまでは見られなかった。


「清魔の儀の件は急に決まったのですか?もちろん異論があるというわけではありませんが・・・」


「ならば問題あるまい」


 ベルナールはようやく顔を上げた。


「そして、王太子からの要望で”お前も必ず出席しろ”とのことだ。」


「……承知いたしました」


 納得はいかないがそれ以上、父が説明するつもりがないことは分かった。


 エリシアは一礼し、書斎を出る。


 廊下を歩きながら、明日の予定を頭の中で確認した。ミレイユの十五歳の誕生夜会で執り行われる清魔の儀・・・そして父の言葉が確かなら、王太子であるレオンハルトも招かれているのだろう。


 ならば、今日のこともそのときに聞けばいい。


 何か事情があったのでしょうか?、と。


 そう尋ねれば、きっと説明してくれる。


 エリシアはそう考えた。


 それでも劇場前でミレイユの手を取ったレオンハルトの姿と、フェリクスが告げた言葉だけは、どうしても胸の奥から消えなかった。


 ――急な公務


 その一言が、小さな棘のように頭の片隅に残り続けていた。

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