第28章 夢の国~東京ディズニーランド
小さな喜びに気づけるかどうかが、幸不幸の分かれ道かもしれません?
正直に申しますと、私はディズニーランドという場所に、長らく及び腰でした。夢だの魔法だの、そういう甘い言葉が、どうも自分の柄には合わない気がしていたのです。「そんな気取った場所、オレみたいな野暮天が行っていいもんじゃねぇよ」――そう毒づきながらも、内心ではソワソワしている自分がいる。まったく、我ながら現金なものです。
友人に誘われるまま、意気揚々と、いや、渋々を装いながら、パークの入り口に立った瞬間、思わず目が丸くなりました。なんだ、この夢みたいな光景は。子どもたちの笑顔、弾けるような歓声、あちこちで交わされる小さな幸福。日常とはまるで異なる密度の空気が、そこには確かに漂っておりました。
面白いもので、人はある年齢を過ぎると、「夢」という言葉を口にするのを、なんとなく気恥ずかしく思うようになります。夢なんて子どもの見るものだ、大人には現実というやつがある――そう自分に言い聞かせながら、いつの間にか、心のどこかに厚い皮を張っているのですね。私自身、若い頃はあれこれ夢見ておりました。しかし人生というのは思い通りにいかないもので、いくつもの夢が、途中でぽきりと折れていきました。そのたびに、「もう夢は見ない」と誓っては、また少しずつ、心の柔らかい部分を固くしていったように思います。
けれど、あの城――西日を浴びて金色に輝くお城の前に立ったとき、ふと妙な感覚に襲われました。どこかの成金の道楽かと思っていたその建物が、なぜだか、じんわりと胸に沁みてくるのです。夢を見るというのは、大人になっても、いや、大人になったからこそ、必要な行為なのかもしれない。そんな考えが、ふいに湧いてきました。
「人は夢や希望があるから頑張れるんだ」。隣で誰かがそう言うのを聞いて、思わず苦笑いしてしまいました。青臭い、と鼻で笑いたくなるような言葉です。ところが、その青臭さこそが、実は人を歩かせる燃料なのかもしれません。頭でっかちに理屈をこねて生きてきた私のような人間ほど、こういう単純な言葉に、案外あっさりと膝を打たされるものです。
思えば、幸せというのは、遠くの大きな場所にあるものではないのでしょう。今日という一日の、ほんの数時間。誰かと笑い合い、少しばかり子どもに戻ってみる。それだけで十分に、人は満たされる生き物なのかもしれません。「小欲知足」という言葉がありますが、案外、ぜい沢な望みを持たずとも、目の前の小さな喜びに気づけるかどうかが、幸不幸の分かれ道なのでしょう。
パークを歩きながら、私はふと、自分の中にまだ、夢を見る力が残っていたことに気づかされました。すっかり錆びついていたと思っていた部分に、ほんの少し、油が差されたような感覚です。大人になるということは、夢を捨てることではなく、夢の置き場所を、ただ変えていくことなのかもしれません。
帰り道、賑やかな光景をもう一度振り返りながら、私は静かに思いました。夢や希望というのは、遠い未来にぼんやり存在するものではなく、こうした何気ない時間の中に、ちゃんと宿っているのだと。今日という一日を、少しでも心弾む時間にできたなら、それこそが、案外いちばん確かな幸せの形なのかもしれません。




