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第5話 剣崎

5000字くらいです。読んでいただけたら嬉しいです。

海は来る日も来る日も何かを運んでくる。希望や絶望や、退屈で凡庸な日常を。僕は中学生になった。今僕はおばあちゃんの遺影を持って彼女と暮らした家の中へ入ろうとしていた。今日はとてもいい秋晴れで、空気が澄み切っていて、海の見える丘からは、遠く地平線まで澄明に見える。地平線に巨大なタンカーが一隻航行しているのが分かる。だがあまりに遠いのではっきりとは視認できず、なんだかモヤっとした星雲状の黒い塊に見える。なんとなくそれは棺のように見えた。彼女は僕が中学3年生になった1週間後に喉に食べ物が詰まらせ、そのまま窒息して亡くなってしまった。最期は苦しそうに、たかし、たかしと僕にしがみつき、僕を鬼のような形相で、血走った目で凝視しながら、ただ一言、ごめんね。と言ってこときれた。物語に出てくる登場人物の美しい死に様なんて誰かがこさえた真実を糊塗する為の嘘だ。人間の死に様がそんなに美しいわけがない。主観的にどうなのかは分からないけれど。

父はおばあちゃんの葬儀に来なかった。ただ自分で描いたまだ若い頃の彼女の油絵の遺影を送ってきた。写真と違い、とても美しく巧みだった。そうする事によって父は彼女に復讐したかったのかもしれない。絵描きになりたいという、自分の嘘を信じてくれなかった自分の母親に対して。

僕は引き続きこの家に住むことになった。父は相変わらず定期的にお金だけ送ってくる。僕にとっては生活の為のライフラインだが、それに感謝はしていても、悲しかった。僕はまた家族と一緒に暮らしたかった。僕には彼がただ淡々と工場での流れ作業のように親の責務を果たしているように思えた。僕は工場で型に嵌められて何度も生産される缶詰なのだ。だが、何度失望しようとも、子供は親に愛してもらえる機会を、愛の証明を望んでしまうのだ。様々な歪な計算式を駆使して。

江口さんはあの事件の後、しばらくして転校してしまった。あの事件があってから、彼女は僕らを拒絶するようになった。加藤と一緒に保健室に行っても、疲れているからごめんねとか、今は話をしたい気分ではないの、と門前払いされた。鷺浦さんは定期的に彼女に対して猥褻なことをしており、彼女はそれを誰にも相談できなかったのだった。父親はいないし、母親とは病気のことであまり仲が良くないからだ。彼女は誰にも頼ることができなった。独りきりで、虫籠に入れられた虫が、四方に囲まれた壁を引っ掻くように、苦痛に耐えていたのだ。僕や加藤は自分がまだ無力な子供であることを痛感した。そして僕は彼女に拒絶されたまま、卒業式を迎えることになった。

鷺浦さんの名前と今回の事件は当たり前の日常に用意される朝食の様に、テレビで放送され、ネットでも拡散された。この事件はそんな食事に突然現れた、ひどく腐った食べ物の様に人々に記憶された。そして江口さんの事も顔写真付きで実名報道されてしまった彼女の家にマスコミや野次馬が死臭に群がるハエの様に押し寄せてきたらしい。だから彼女は転校してしまったのだろう。僕らが住む街ではその噂で持ちきりだった。噂が噂を呼び、尾ひれがつく事もしばしばあった。実は母親が気づいていたのに放置していたとか、他の児童にも被害者がいるんじゃないかとか。鷺浦さんが現行犯逮捕され、警察に連行される時、彼は僕にこう言った。「人生に無駄な事は一つもないんだよ。それが全部自己満足だとしてもね。」

加藤とも交流しなくなってしまった。彼が鷺浦さんに首を絞めあげられている間、僕は何も言えなかったし、出来なかった。この世には透明な怪物がいること、今も自分の目の見えないところで、透明で残酷なメカニズムの歯車がお互いに噛み合い、それによって恐ろしい怪物が出来上がり、誰かが犠牲になっている事を知った。それは加藤も一緒だった。彼は何も出来なかった僕を責めることはなかった。でも多分、口に出さないだけで僕のことを嫌っていたと思う。そして自分のことも。彼は彼女を救えなかった罪悪感で塞ぎ込んでいってしまった。僕らを照らす、暖かくて明るい太陽は沈んでしまった。僕にはどうしようもなかった。

高校は家から近い地元の公立を選んだ。おばあちゃんとの思い出の詰まった家を離れたくなかったし、私立の学校に行けるほどの金銭的支援もなかったからだ。その高校は僕の家のある海の見える丘の頂上の一番奥まったところにあり、いつもそこから海を眺めることができた。学校生活で何か辛いことがあっても、海を見ていたらそれを乗り越えられる。もし江口さんがこの学校に居たら、そう言ったに違いない。入学式の時に加藤を見かけ、目があったが、なんて声をかけていいか分からなかった。

僕のクラスは中学校で同学年だった子がほとんどだったが、何人か見知らぬ生徒も居た。僕はクラスメイトがお互いに自己紹介をし、LINEグループを作ろうと親睦を深めあって盛り上がっている間、ずっと砂浜に埋まる二枚貝のように一人席で塞ぎ込んで、小説を読んでいた。時たま誰かに話しかけられてもニヤニヤはにかむだけで、ろくな返事をしなかった。僕は決してシャイなわけでない。でも別に僕が居なくても世界がそれで回るなら、僕はその世界に参加したくなかった。ただそれだけの理由だった。もし江口さんのように本当に困っている人が居たら手を差し伸べるのもやぶさかではないが。

「それ三島由紀夫の潮騒だろ?三島由紀夫好きなの?」

失礼ながらガリガリとかヒョロヒョロと言ってもいい、もやしっこみたいなやつが話しかけてきた。顔の造形は決して悪くないのだが、その貧相な体躯のせいで、ダボダボの制服に着られている道化のように見えた。彼も僕と同じで、クラスの中で孤立しているようだった。

 「俺もこの作品が大好きで何度も擦り切れるまで読み直したよ。俺にとってはアジールみたいなもんさ。」

「アジールってなんだい?」

「聖域とか、避難所って意味。」

「君にとって小説は逃げ場所なんだ。」

「俺は逃げることをそんなに悪いことだとは思ってないよ。一般的には逃げることは悪いことだっていう風になっているけれど、困難と直接ぶつかって大怪我したり、うつ病になってしまうくらいなら逃げたほうがいい。困難に逃げ道を見つけた時、人は成長するのだと思う。聖書にもあるじゃないか、神は耐えられない試練を与えない。試練と共に必ず脱出の道も用意してくださるって。」

「君は博識だなあ。」

「小さい頃にカトリックの教会に通っててね。聖書はちょっと齧ってんだ。」

「そういえば、下町に孤児院が併設されている教会があったね。」

「俺、そこの孤児院出身なんだ。」

 なんだか僕は彼のことを好きになってしまっていた。彼の名前は、剣崎と言った。放課後僕らは一緒に帰った。太陽がゆっくりと海に沈もうとする中、二人でたわいのない事を話した。地平線にタンカーが航行しているのが見える。彼は高校生にしては圧倒的に博識で、僕なんか全然敵わない。得難い人と出会えたのだと思った。

「じゃあまた明日!」

「うん、じゃあね!今度孤児院に来てくれよ!君にそこのでっかい本棚を見てほしい。」

「ぜひそのうちにね!」

僕たちは丘の中腹付近で別れる。僕はおばあちゃんの思い出がつまった、もう僕しかいない死の匂いのする家に帰る。

「ただいま」

僕の声が土間に響く。僕はたとえ何も返ってこなくても死者に対して挨拶をする。そこにはかつておばあちゃんが占めていた空白がある。幽霊のような残像がある。だが人生は絶対に巻き戻せないし、死んだ人は戻ってこない。だからこそ自分の人生が終わる時の、自分の世界が消える時の為に今から備えておくのだ。未来に備える為の最良の方法は今に全てを詰め込み、それを精一杯生きることだけだ。そして死者のことを忘れなければ、死者は僕を守護天使のように守ってくれるだろう。そのうちふらっと夜のコンビニに立ち寄るような感じで、また彼女に会えるような気がする。人生は決して消失点に向かってまっすぐ進んでいくのではなく、円環構造になっているような気がするのだ。

僕は仏壇にお線香を添える。

 「おばあちゃん、今日僕に新しい友達が出来たよ。面白いやつなんだ。彼によると人は逃げることで成長出来るんだって。僕は江口さんの力になれなかったけど、加藤のことを助けてあげられなかったけど、そしてそれをとても後悔していたけど、そこから逃げてもいいのかな・・・。って少し思い始めたよ。今おばあちゃんは竜宮城にいるの?海の向こうにいるの?おばあちゃんは嘘の世界にいて、僕は本当の世界にいるの?それとも僕のいる世界が嘘で、おばあちゃんのいる世界が真実なの?」

 やっぱり死者からは何も返ってこない。死者と生者の間には乗り越えられない深い谷間がある。僕は一人で夕食を作り、一人でそれを食べる。だが、あまり孤独は感じない。彼女が遠くから僕を見守ってくれているような気配があるからだ。

 食事を終え、簡単な宿題を済ませると、僕は寝室に布団を敷き、スタンドの明かりをつけ、布団の中に入る。そして三島由紀夫の潮騒の続きを読む。そこには三重県鳥羽市に属する歌島で働く海女さんの苦労が克明に描かれている。

 「冷たさ、息苦しさ、水中眼鏡に水が入ってくる時のいいしれぬ苦痛。もう2、3寸で鮑に手が届くというところで全身を襲う恐怖と虚脱感、それから様々な怪我、海底を蹴って浮き上がる時に鋭い貝殻が指先に与える傷、無理を犯した潜水の後の鉛のような気だるさ。」

 僕はその自ら潜水を体験したかのようにリアルな描写に驚く。そして海女さんに自分自身の心を重ね合わせる。

 もしかしたら僕がやっていた、0から創作話を創るということは、潜水して漁をする事に近いのかもしれない。創作をする時、僕は自分の夢の中へと入っていく。現実、日常の世界から自分の心の世界の深いところまで飛び込んで潜っていく。日常の世界と夢の世界は支配している法則がまるっきり違う。夢の世界の中ではあらゆる言葉やイメージがランダムに錯綜し、不安定に繋がり、拡がり、離れていく。自分が自分を意識する前の原始的と言ってもいい世界がそこには拡がっている。その中をひたすら潜っていく。あまり長居しすぎると、日常の世界に帰れなくなってしまうから息が続くうちに元の世界に帰らなければならない。自分の体力を見誤って深く潜りすぎると、一生精神病棟の天井を見て暮らさなければならなくなるかもしれない。これはそういった恐怖との戦いなのだ。そしてその深みから綺麗な貝(物語の断片)を見つけて命からがら日常の世界に戻ってくるのだ。そこでは精神が傷つきもするし、絶望もするし、本当に潜水をした後のような気だるさもある。そんな事に気づいたのだった。

 だから僕はより深く潜れるように、その為の基礎体力をつけたいと思った。より深いところにはより人間の本質に肉薄した物語が隠れているという確信があったからだ。

 その為にどうすればいいのか考えてあぐねていたら眠くなったので、僕はスタンドの明かりを消し眠る事にした。

 「深く潜る・・・海女さん・・・・。必要な体力・・・・。真空・・・。宇宙。息苦しさ・・・。」

翌日起きて布団から出る。窓から新鮮な日光が降り注ぐ。それには目もくれず、夢で見た物語の断片を事細かにアイデアノートに書き写す。そして夢の世界から生還できたことを感謝する。午前中いっぱいをそうして過ごす。断片的な夢のアイデアを繋いで物語にしていくこと、それには飽きない。起きながら夢を見るかのように、様々なアイデアが繋がったり、離れたり、また繋がったり。夢の世界と現実の世界、それをデジタルな線で分けてしまうのはあまりにも難しい。起きながら夢を見ることも、寝ているかのように現実を生きることも、人間には出来てしまうのだ。

ここ最近僕は同じような夢を何度か見ていた。宇宙を彷徨う男の夢。それらを書き記すうちにそれは連載小説の様になっていった。


何も解決していませんが、僕の高校生時代が始まります。新しい友達剣崎と共に。

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