第11話 田崎先生
5000字くらいです。楽しんでいただけたら嬉しいです。
朝の太陽の光は僕には眩しすぎる。それは誰をも平等に照らし、何もかもを明らかにしてしまう。僕は太陽の光に責められているような気がしてしまう。丘を街へと降りていき、江口さん宛の手紙を郵便ポストに入れ、また丘を登り、高校へ向かう。僕は地平線にタンカーが航行しているのか確認する。遠くにタンカーが見える。
落語の前座のような退屈な午前中の授業が終わり、昼休みになる。クラスでは皆それぞれくっついたり離れたりして、談笑したり、小説を読んだり、お弁当を食べたり、昼寝をしたりしている。
剣崎が話しかけてくる。
「早速だけど、ヒゲのおじさんが呼んでいるから一緒に行こう。」
僕らは何の変哲もないいつも通りの廊下を職員室へ向かう、だが僕は、いつもはあるはずのない異物が近づいてくるのを感じた。
「よお、昨日は豚が世話になったな!」
昨日加藤を連れていた不良がニコニコしながらこっちに寄ってきた。相変わらず学校の廊下で悪びれもせずタバコを吸っている。大きな三角定規を持った数学の先生が彼の前を素通りした。
「お前らあの豚の友達なの?クラス一緒?」
「いや、一緒じゃないし、友達でもないよ。」剣崎が答える。僕は何も言えない自分が歯痒かった。
「ふーんそうなんだ。あいつクズだからさ、約束を守んないのいっつも。時間も守んないの。もしあいつの事で何か迷惑したらいつでも俺に言ってくれよな!お前らの目の前でお仕置きしてあげるから。ところでタバコ吸う?」
「いえ、大丈夫。失礼します。」
剣崎が僕の手を引っ張ってその不良の前を横切っていく。バレないように不良の顔をチラッと見ると、彼は飢えた野良犬のような目つきをしていた。作り笑いのように口元が僅かに歪んでいた。
僕は怒りで今にもその不良に殴りかかっていきたい気持ちになったけれど、理性がそれを止める。今加藤の為に戦っても、それに見合う対価はないどころか、後々まで尾を引く負債になる・・・と。僕には肉体的な勇気が欠けている。
「あいつらはこの高校の問題児達なんだよ。」
田崎先生は職員室で腕組みをして、何の意味もない神社の狛犬のような顰めっ面であの不良達について話す。
「本当に邪悪なやつっていうのは、自分が邪悪さを発揮できる機会を弁えているんだ。問題にならないところで、問題にならない程度に小出しにする。だから証拠がないんだよ。彼らが万引きやカツアゲやリンチをする時、そこには必ず金城というリーダーが居て、あらゆる手を尽くして絶対に証拠を残さないように、不良集団を制御している。僕も何度か注意をしに行ったんだが、全く証拠がない上に、不良達はシラを切るのがうまいからどうしようもないんだ。だが、加藤君の事、僕も注意して見てみようと思う。君たちも写真でも映像でもいいから、なんか証拠を集めてくれ。ただ無理はしないでね。」
「分かりました。ありがとうございます。」僕は心強い味方を得た。神社の狛犬だって何の意味もなくそこに立っているわけではないのだ。狛犬は世界に離散的に点在する邪悪なものをそこから常に見張っているのだ。ただの石であっても、迫害され、何の力もない弱者にとっては一緒に戦ってくれる心強い味方なのだ。
「それで空き教室の件ですが」剣崎が切り出す。
「そうだそうだった。いい部室が見つかったから一緒に行こう。」
僕らは先生に連れられて、昼間の日光で間延びしたかのような渡り廊下を歩いていく。いつもより旧校舎への距離が長く感じる。
「旧校舎に今は使われていない図書室があるんだ。そんなに広くはないし、設備も古いが、当時使われていた本がまだ残っていて、それをもう廃棄するかどこかに譲ろうなんて話が最近教員間で出ていたんだ。でも僕はそれが君らの活動の一助になると思ったんだ。」
「ありがとうございます。ぜひ活用させてもらいます。」
「ここだ、ここだ。」
先生が錆びた鉄の扉のように重そうな引き戸を思いっきり開ける。部屋の中に埃が舞い上がる。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から僅かな白い光が差している。広さは20畳くらいで、いくつかの書架が古い団地のマンションのように並行に並んでいる。先生がいつからかかっているのか分からない、古びた厚いカーテンを開ける。日光がその部屋を明らかにする。太陽は全てを明らかにする。その部屋は書架も床も机の上も、埃だらけだった。一匹のゴキブリが光を避けるように書架の影の中へ逃げていく。目が慣れるまで、しばらくかかったが、縦に長い窓からは広く海が見える。悪くなかった。
「こりゃ年代物ですね・・・。」
「まあずっと放置されていたからなあ。まずは掃除した方が良さそうだ。」
僕らは昼休みの間を利用して、旧校舎の図書館を掃除する。部屋の隅に置かれ、人々から忘れ去られた倉庫には箒や塵取りや雑巾が放置されていた。倉庫は密室だったのでそれらは新品のように綺麗だった。いつからそれらは密室に保存されていたのだろう。何だか僕は即身仏を思い起こした。
「先生は昔小説家を目指していたんですよね。」剣崎が聞く。
「うんそうだよ。」
「是非先生の創作論について伺いたいのですが・・・。」
「今ここで?」
「先生も忙しいと思うので。」
僕らはしばし沈黙する。箒が床を掃くざらざらした音だけが部屋を満たしている。
「分かったよ。正直に白状しよう。こんな話をするのは創作部の君らだけなのだからね。」
僕らは掃除をしながら、先生の独白に耳を傾ける。先生も箒を掃きながら喋る。
「君たちは過程と結果についてどう思う?」
「過程と結果ですか?」
「全ての物事には過程と結果がある。全ての生き物に生と死がある様に。生というのはその一瞬一瞬を死ぬことだし、死というのはその過程を生きることだ。」
「つまり・・・・。何が言いたいんです?」剣崎が不安な犬のような声で聞く。
「この宇宙は全て、過程と結果によって満たされている・・・。という事だ。」
それは少々大雑把な仮説な様な気がしたが、僕は止めなかった。分かりにくく、あまりパッとしない、客観的ではない仮説にはその人にしか表現できない、その人の人生が詰まっている。その人からしか受け取れないメッセージがある。多分この先生は本当の意味で正直者なのだろう。
「時々他人の心を分かった様な事を言う奴らがいるけれど、そういう奴の言うことを鵜呑みにして聞いてはいけないよ。他人の心の内は分からない。まだ若かった頃、僕は僕なりに努力してみたけれど、人の心が分からなかった。自分の心の過程は分かる。自分がどれだけ頑張って努力したのか。どれだけ友人や家族を愛していたのか。でも非対称的に他人の心、その過程が分からないんだ。彼らが勉学でどれだけの成績を残して、どこに勤めていて、給料はいくらで、家族構成は・・・。とかなら確実に分かる。でも彼らが何を一番大事にしていて、僕は本当はどう思われていて・・・。なんてどれだけそいつと深く付き合おうと分からない。もしかしたら僕が疑り深い性格だからかもしれない。ははは。」
「でも想像する事は出来ます。」と僕は言う。
「そう。そこにスポットライトを当てることは出来る。人間の心はある程度まで交換可能なものだからね。僕は確信があった。人の心の過程を理解して表現するのがフィクションの役割だと。今僕はもう離婚していて、親権も取られてしまったけれど、その昔奥さんと娘が居たんだ。僕の奥さんは働いていて、僕は売れない小説家をやりながら、食べさせてもらっていたんだ。いつか絶対に売れて、君らを裕福な家に住まわせてやるってね。そして僕は奥さんの事を、娘の事をできるだけ理解しようとした。愛そうとした。それを表現しようとした。でもダメだった。その人とどれだけ一緒に居ても、どれだけ深くその人を知っていても、心というのは玉ねぎのように、核がない。どこまで行っても確信に辿り着けないんだ。そして人の心はまた、海のさざなみの様な物でもある。」
「さざなみ・・。ですか?」僕は意外なところで、下線を引きたくなるようなキーワードが出てきたので反応した。
「そう、他人の心というのは、さざなみの様に引いては返し、引いては返し、最後に残るのは記憶だけだ。それだって自分の勘違いかもしれない。そして手探りで、お互いにお互いの幽霊の様な残像を引き寄せ合いながら、勘違いをする。誤解をする。理解と誤解というのはお互いに表裏一体の親類なんだよ。そして些細な亀裂が大きなフォッサマグナになる。僕は大切な家族と大きな目標と食い扶持を失い、そして教師になった。」
「どうして教師になろうと思ったんですか?」剣崎が聞く。
「分からないものを分からないまま求められるというのがね、子供の特権だからさ。本当は大人もそんな生き方が出来たらいいのだけれどね。大人になるという事はある程度現実に見切りをつけるという事だからさ。中々難しいんだ。だから僕にとって未来が希望に溢れた若者の成長の過程を支援する事は、若い頃やっていた小説を書こうとする事とそう変わりない。人の心の過程は原理的には分からない、分からないんだけれど、光を当てることは出来る。分かろうともがく事は出来る。たとえその先が後悔と絶望と諦めに繋がっていたとしても。それが僕の考える創作論さ。そろそろ休み時間も終わりだな。」
キーンコーンカーンコーン。
「掃除の続きは放課後に君らでやってくれ。あ、それとこの図書館には文学少女の幽霊が出るって噂だよ。気をつけてね。ふふふ。」
「俺らも急がなくっちゃあ。」
僕と剣崎は掃除用具を倉庫に入れて、昼間の熱がこもった気だるい校舎を駆け抜けていく。
初夏の放課後はまだ明るい。だが春の寒さを残している。校舎は昼間の熱を放出し切って、なんだか縮こまっている様に見えた。生徒たちも足早に帰路につく。
僕らは縮こまった渡り廊下を渡って、旧校舎の部室を目指す。
「田中は今日の田崎先生の話についてどう思った?」
「う〜ん。結果より過程の方が、田崎先生には大事って事だろう。確かに今の世の中は結果、今分かっていること、見えているものにしかスポットライトを当てていない様な気がする。SNSやAIがまるで人間の心やその過程まで明らかにしてくれるような幻想に人々は酔っている。でも原理的には分からない人の心を何とかもがいて知ろうとする、分からないものを分からないまま求める。そこに僕は創作の秘密がある様な気がしたんだ。」
「いわゆる今だけ金だけ自分だけってやつだね。それが人間の全てみたいな時代に俺らは生きている。それだけ人間が薄っぺらくなったんじゃないかなあ。今を全力で生きるんだ、みたいな定型句が世の中をダメにしていると思う。人間には過去だって未来だって他人だって必要だ。それがたとえ分からなかったとしても、求めるというのが綺麗事なんじゃないかなあ。綺麗事を馬鹿にするのは良くないと思う。」
渡り廊下を歩きながらそんな事を話していると、僕は校舎の隅からこちらを眺める冷たい視線を感じた。そちらへ目を向ける。そこには背が高く、細身だが筋肉質な坊主頭の青年が立っていた。眉毛の隅に小さな傷があり、耳にはピアスをつけている。その鋭い目線には獲物を追い詰める鷹の様な知性を感じた。
「ねえ剣崎、あそこから僕らを見ているのって・・・。」
「ん?何のこと?」
僕が再び振り返った時、もうすでにその青年は過ぎ去った風のように姿を消していた。僕は彼を風のような青年だなと思った。
分からないものを分からないまま求めるということが田崎先生の創作論なんだそうです。いつまででも生きていられたらそれでもいいけれど、人生には終わりが来るから、見切りをつけるのも大事ですよね。




