第1話 江口さん
6500字くらいです。読んでいただけたら幸いです。
奇病という言葉がある。原因不明で希少な病のことをそう言う。世界には様々な奇病があるが、僕が罹ったのは唯一僕にしか当てはまらない病だった。
人間は誰もが多かれ少なかれ病人なのだと思う。酒に溺れる人、女に溺れる人、ギャンブルに散財する人、怒りを抑えられない人、健診で引っかかるくらい太っている人。誰もが自分が生きるために、ヘタしたら自分を損なうようなことに熱を上げている。日本の若者の間で持て囃される、勉強が良く出来て頭がいいとかSNSで友人が多くいるということだって、石器時代だったら病のように扱われたのかもしれない。その頃の健康なスーパーヒーローは狩がうまくて、あんまりお腹のすかない省エネな人だったのだと思う。だから正常や健康の定義は時代によって変わるのだ。たまたまその時代の健康が正常とされ、それに倣うのが良いこととされる。そう思うと自分の境遇にもほんの少しの救いを感じる。
違うからではなく、同じだから病人なのだ。本当に誰とも違う人は一般に言う病人というカテゴリーからもはずれた人だ。そんな僕と境遇を同じくする仲間は一人もいない。つまり僕は、本当は健康なのだろうか?その人らしい程度で生きるのが健康とするならば。みんなそのうち必ず死ぬのだし。そして一般に言われる健康という定義は実は病の一つなのか?
僕にはグループセラピー?みたいにみんなで車座になって病気について励まし合うことはできない。(出来たとしても、そんなこと気持ち悪くてしたくないけど。)僕はどんなカテゴリーからも外されてしまった。僕は神を呪いたくなったが、最近いくら待っても僕に語りかけてくれる悪魔も神もいないのだということに気がついた。
僕は自分自身を呪った。僕が罹患したのは、眠る時間が増え続け、そのうち、完全に眠ってしまって、寝たきりになってしまう原因不明の病気だった。
僕は初めて自分から死のうと思った。自殺するということは、究極の意志の行為であり、それが精神の自由に繋がる。このまま眠ったままになってしまうのなら、僕は僕のまま僕を背負って死ぬ。
当然、僕は病気を憎んでいた。だが同時に気になってもいた。何故なら何にもカテゴライズされないその病気のおかげで僕の運命は成り立っていたのだから。僕と病気とはお互いに持たれあっていたのだから。それは恋に似ていた。そう、僕は自分の病気に恋をしていたのかもしれない。
窓から海の見える、僕の他には誰もいない殺風景な病室で、ドアノブに結んだ首吊りロープをかけ、輪っかに首を乗せる。窓からは夕陽が差し、部屋はオレンジ色に染まっている。尻をすこしずつ扉から離してずらしていくと、それにつれて首が締まっていく。苦しくはない。頭に血が行かなくなって目の前ががチカチカしてくる。視界がテレビの砂嵐のようになって何も見えなくなる。身体の力が抜けてだらんとドアノブにぶら下がる。
「田中くん!」
僕は名前を呼ばれて顔を上げた。ここは中学校の二年三組の教室だ。窓からは陽光きらめく海が見える。今は五月くらいだったっけか、居眠りをしていたのを、担任の先生に咎められたのだった。クラスメイトは授業中なのに皆それぞれ友達と談笑している。規律がなく、生ぬるい空気が漂っている。先生は二十代くらいの女性で、おかっぱ頭で、目が小さくて痩せていて、そして何故かいつもエプロンを着ている。気が小さくて他の生徒達を大声で叱れないくせに、僕が目立った反抗しないのをいいことに目の敵のように小声でこまごまと注意してくる。
「田中くん、ちゃんと授業を聞きなさい!それとあなた保健室に行って恵ちゃんにいやがらせしてるんだって?加藤くん達が言ってたわよ!女の子のことは大切にしなさい!」
デブな加藤とその取り巻きがこちらを見てクスクス笑っている。精神年齢が幼いと思って無視する。
「先生、僕お腹が痛いので保健室に行きます。」
「だめよ田中くん授業中なんだからちょっとくらい我慢しなさい。」
「失礼します。」
「待ちなさい、田中くん!」
僕は先生を無視して保健室に向かう。まだ寒々しさが残る渡り廊下はとても静かだが、時折運動場や教室から生徒の声が壁に当たって反響し、ほんの少し人の温もりを感じさせてくれる。用務員の鷺浦さんがモップで床を磨きながら僕に挨拶をしてくる。痩せている初老の男性で、制服の上には白髪の混じった角刈りの頭がある。
「やぁおはよう田中くん。今日もいい天気だね。」
「おはようございます。鷺浦さん。」
「あんまり先生を困らせるもんじゃないよ。先生だって君のことが嫌いなんじゃなくて、きっと心の奥では君のことを心配してるんだから。」
「でも、だったら正直に心配してることを伝えればいいと思います。お互いに余計なことで時間を使うのって、無駄なことだと思うんですけど。」
「ませてるねぇ。でも無駄だって必要だよ。思い出の中で美しく輝くのはいつだって無駄なことさ。」
僕は用務員さんが何を言ってるのかよく分からなかったので、スルーして保健室へ走っていった。
用務員さんと先生は仲がいい。もうすぐ再婚するそうだ。彼は結婚していたのだが、先生と彼は不倫をしていて、去年彼の奥さんが学校まで殴り込みに来たのだった。それで噂は一気に学校中に広まった。彼が離婚した今では学校中に二人のことは公認されており、皆から温かい目で見られている。
二人は仲睦まじく、傍から見てるとまるで親子のようだ。年齢的に考えてもおかしくはない。ただお互いに手を重ねて置く所や校舎裏で肩を寄せあっていちゃついてるのを見た時に、男と女の関係のなまなましさを感じて僕はちょっと気分が悪くなる。用務員さんはロリコンで先生は老け専で利害が一致してるのだろう。それが僕にはなまなましい。
「失礼します…。」
僕はそおっと保健室のドアを開ける。学校の日常の喧騒から隔離されたかのように、保健室には清浄な空間が広がっている。まるで僕の好きな手塚治虫のsf漫画に出てくる、よくある理想的な未来都市のように、無機質で清潔である。湿布の匂いが辺りに立ち込め、真っ白いガラス張りの棚には、僕には理解できない、薬や金属製の道具など非日常が詰め込まれている。部屋の一番隅のデスクにおばさんの保健医さんが居る。白髪のショートヘアで、整ったバタ臭い顔で、シワのない白衣を着ている。彼女はクラスメイトや先生からあまりやる気がない保健医だと思われている。何故なら生徒が適当な理由を言うとあまり詮索しないでベッドに寝かしてくれるからだ。でも具体的な症状や怪我があるととても丁寧に対応してくれる人だった。人よりもその人の症状を見ている人だった。無関心と優しさは決して矛盾するものではないのだ。
僕はお腹の調子が悪いのだと言って保険医さんの許可を得て、保健室の窓側の隅から2つ目のベッドに腰掛ける。隣の窓際のベッドはカーテンがかかっていて僕はカーテンの外から話しかける。
「江口さん、俺俺、来たよ。」
「ふふふ、それこの前言ってた俺俺詐欺やんww」
僕はカーテンを開ける。
海の見える窓際のベッドの上で江口恵は上半身を起こしてこっちを見ている。髪型は真っ黒なショートで、アニメものの使い古したシャツを着ている。顔は目の覚めるような美人ではないが、整っていて綺麗だ。
彼女は心筋梗塞で、運動をしたり、ストレスを感じたりすると胸に痛みが生じる。下手すると心臓が止まってしまうので、最近は一日の殆どを保健室で過ごさなければならない。でも彼女は自宅で療養するのではなく、学校に来たかった。友達を作りたかったし、誰かと共に生きていたかった。しかし病状が悪化し保健室登校になるにつれ周りのクラスメイトに一人だけずるをしてるのだと煙たがられるようになり、だんだん孤立していった。彼女は独りぼっちになってしまった。
それと、先生によると彼女は片親で、親の仕事が忙しく家でもあまりかまってもらえないらしい。僕はクラスメイトの同情を引こうとしてそういう個人的なことをクラスの朝会で皆に言ってしまう先生を本当に非常識だと思った。
僕は彼女のことが好きだが、それの中に彼女に対する同情が無いといったら嘘になる。僕も両親の不仲で、祖母の家に預かってもらっているのだ。僕は親近感が湧いて授業終わりや昼休み、たまに授業をサボって保健室へ行くのが毎日のルーティーンになっていた。保健室で彼女と他愛のない話をする。誰も友達になってくれないのなら、僕が友達になってあげようと思った。彼女がずるをしているというふうに見られるなら、僕も積極的にずるをするのだ。ずるを共有するのだ。
彼女は澄んだ黒い目をしていて、なんだか僕の心を見透かされてるようだ。かと思うと、人懐こい猫のようにゴロゴロ言って甘えてくる。おそらく長い間一人で保健室に居る寂しさを紛らわそうとして。彼女はそんな猫のような二面性を持っていた。
そんな僕らを見て保険医さんは僕と彼女が話すのが彼女にとって良い影響を与えると思っていたのだと思う。二人でペラペラ喋っていてもあまり干渉してこなかった。
「加藤っているじゃん、デブで子分を従えてる。なんだか知らないけど僕にちょっかいを出してくるんだよ。僕は彼がもしかしたら江口さんのこと好きなんじゃないかって勘ぐってるんだよね。」
「どうして?」
「僕に君の様子をしきりに聞いてくるんだよ。僕たちのこと付き合ってると思ってるんじゃないの?君を僕に取られたくないんだよ。」
「またまたぁ、クラスにいた時に話しかけられたこともないよあたし。」
「彼にとっては君は高嶺の花なんだよきっと。江口さん魅力的だから。」
「なんだか照れちゃうな、田中くんにそう言われると。」
「…それでね、あるとき加藤がクラスのみんなで徒党を組んで僕を無視したことがあったんだよ。」
「ひどい…。」
「だから僕ね、昔兄貴が持っていたUFO特集が組まれた月刊マーに君の名前を書いて君の机に置きっぱなしにしてたんだよ。そしたらあいつ案の定それを必死になって読んでるの、UFOの呼び方とか熱心に勉強してね。みんなの前であいつUFOを見たっていうんだよ。呼んでみせるって。教室で急にベントラーベントラーって唱え始めて、結局何も来なくてあいつがクラスで仲間外れさ。更に僕は意地悪だから、江口さんは実は宇宙人なんだって加藤に言ってやったの。あいつはそれからずっと君のことを宇宙人だと思ってるみたい。自分のことも実は宇宙人なんだとか言い始めて、運命を感じるんだって。」
「きゃはははは、ばかだねぇ。」
「でもほんとに宇宙人はいるのかもしれないよ、だって宇宙には2兆個もの銀河があるんだってよ。もしかしたら人間を作ったのも宇宙人かもしれないし、そういう神様みたいなのが居たら素敵だと思わない?」
「でも、もし居たとして、宇宙人は私のこと助けてくれるのかな、あたし宇宙よりも海のほうが好きだな。」
彼女は寂しげな顔で目を背け、窓から海を眺めている。寄せては返す波は何かを運んできてくれるのだろうか。彼女はその何かを期待しているようだった。
僕は彼女の海を見つめる横顔がとても綺麗で見惚れていた。そして、なんだか彼女と僕との間に絶対に超えられない透明な壁があるかのように感じたのだった。誰にも言えない、共有できない秘密というのはその人に一抹の不安と、そしてやすらぎを持たらしてくれるのだと思う。
その後も2人で色々な話をしていたら、スピーカーから放課後を教える音楽が流れてきた。
「田中くんまた明日も来てくれる?」
「もちろん!今日も君と話せて楽しかったよ!」
「またこの前みたいに田中くんが考えた創作の話が聴きたいな!明日までの宿題ってことでいい?ふふふ、ごめんね図々しくて。」
「オッケー、まかしときなさい!」
保健室から出て学校の玄関口に行く。もう大半は下校し終わった所で、集団下校で帰路につく低学年の生徒がその辺にまばらに散っている。
その時、デブの加藤が取り巻きを連れて帰ろうとしている所に出くわしてしまった。
加藤は坊主で学生服をだらしなく着崩していて、給食で出た余りの揚げパンを片手に食べ歩きしている。まるで裸の大将のようである。
「あ、サボり魔がいるぜ、みんな〜田中が出てきたぜ。」
加藤の取り巻きの面々が僕を囲んで絡んでくる。ノッポやデブやチビなどそれぞれが個性を持っていて、漫画のモブみたいで見てて飽きない。群れている奴らに限って、それぞれキャラが固定されていて、少年漫画の登場人物みたいに個性的なのだ。だから僕は少年漫画が嫌いだ。
「お前みたいなひょろがりが女にのぼせてんじゃねーよ。」
「授業をサボってズルして恥ずかしくないの?クラスの雰囲気が悪くなるんだけど。」
「ズルするやつにはバツを与えないとね。じゃなきゃ俺らが馬鹿みたいじゃん。」
「江口さんのこと好きなの?あんな子のこと味方して何になるの?お前らズル休みの味方なんてどこにも居ないのに。」
僕は相手にしたくないのでみんな無視する。それでも野良犬のようにしつこくついて来て絡んでくるのでカッとなって言い返した。
「僕が何を努力しようが、誰の味方をしようが僕の自由だね。お前らみたいに群れるだけで一人になれない弱虫と違って僕にはやるべきことがある。僕はずっと江口さんの味方だし、一応言っとくと、彼女は宇宙人なんかじゃないよ。」
加藤が気づいて、顔が赤くなっている。
「まさかあの月刊マーって…」
「僕のだよ。騙されてバカを晒してくれてありがとう。少しはみんなに仲間はずれにされる辛さが分かった?」
加藤がこめかみに青筋を立てて叫ぶ。
「やっちまえ!」
加藤と4人の取り巻きが攻撃してくる。流石に多勢に無勢だった。ボコボコにされる。
「フライングクロスチョップ!」
「スペシウム光線!」
蹴られたり、プロレス技をかけられたり、散々だ。
生垣の中に放り込まれる。
「身の程をしれよ、今度江口さんに近づいたら殺すからな。」
「だっさー大口叩いてこんなもんかよ。」
「二度と学校に来んなよ!」
僕は相手にしなければよかったと思った。僕の白いシャツは泥や植木の葉っぱで汚れ、所々破れていた。くだらない事で消耗してしまった。僕は彼らの少年漫画のような世界観にいいようにされてしまった自分を恥じた。いじめから抜け出すためには彼らの世界に応答しないで、いじめに効果がないと思わせるのが一番なのに。
でも僕は江口さんの味方をしてあげるためだったら何を失ってもいい。腕を失わなきゃ彼女に会えないのなら、僕は躊躇なく自分の腕を切り落とすだろう。それをハイエナみたいな加藤の取り巻き達にくれてやっても構わない。
「もう私出ていく!あぁ!子供なんか産まなきゃよかった!この結婚は失敗だった!」
「お、お前、そんなこと口が裂けても俺の前で言うんじゃねーよ!」
幼少期の僕が両親のけんかをぼーっと眺めている。都心の家は狭く、お互いの声が壁に不気味に響いて僕はとても不快に感じた。ヒステリックでストレスに弱い母はよく癇癪を起こした。彼女は炊飯器や包丁を父に投げつけて、家を出ていってしまう。僕がお腹が空いた事を伝えると、父は僕を見て舌打ちをする。子供嫌いで、僕に対して形式的にしか構ってくれない父だった。
「これやるから、コンビニでなんか買ってきなさい。」
父に千円札を渡される。彼も家を出ていってしまいその後一週間千円で暮らさなければならなかった。ひもじさが不安と悲しみと寂しさに変わっていく。その頃は自殺なんて考えもしなかったが、今同じ目にあったら、お菓子よりも甘く暗い死の誘惑に抗えないかもしれない。
嫌なことがあるともっと嫌なことを思い出す。そんな時は僕は浜辺で海を眺めるのだ。季節柄、浜辺には人がまばらだ。遠くの浅瀬でウェットスーツを着てサーフィンをしている若者がいる。
寄せては返す波を夕日が照らしている。僕は今海の世界と陸の世界の境目にいるのだ。僕の預かり知らないところで、サメやクジラや小魚や海藻が一つの世界を形作っている。
生きてれば嫌なことだってある。でも波は希望や幸運も同じだけ運んできてくれる。だから海を見てるとだんだん生きる力が湧いてくる。
もしかしたら、江口さんは何かを運んでくるその波のパターンに見とれていたのだろうか。そのパターンを把握できれば、波の法則を、世界の謎を解明できれば、逆に世界の仕組みを利用できるかもしれないからだ。運命と自分との立場を逆転させることができるかもしれない。
学校にあんまりいい思い出はありません。




