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【お仕事幻視短編小説】電柱が見た愛の記憶、あるいは影を描く男  作者: 霧崎薫


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第五章:愛と憎しみの輪郭

 幻の中の季節は春だった。桜木通りの桜が満開に咲き誇っている。その下を明子と和也が寄り添うように歩いていた。明子の手には藤の花の柄の便箋が数枚大切そうに握られている。


「……本当にいいのかい? 僕みたいなのと一緒になって」


 和也が少し不安そうな声で尋ねる。彼の家は名士だがそれは親の力だ。彼自身はまだ何者でもないという焦りがあるのかもしれない。その表情には自分に自信を持てない青年特有の脆さが見て取れた。


 昭和四十年代の結婚は現在とは大きく異なっていた。恋愛結婚が一般化したのはこの時期からで以前は見合い結婚が主流だった。だからこそ自由な恋愛への憧れは強く若者たちは親の決めた結婚よりも自分で選んだ相手との結婚を強く望んだ。しかし現実には家格の問題経済的な問題が立ちはだかることも多かった。


「何言ってるの和也さん。私あなたがいいの。あなたが好きなの」


 明子は心からの笑顔で答える。その笑顔は春の陽光のように周りの風景まで明るくする力を持っていた。彼女は握っていた便箋をそっと和也の胸ポケットに入れた。


「私毎日あなたに手紙を書くわ。あなたが不安にならないように。私がどれだけあなたのことを想っているか毎日伝えるから」


 その言葉に和也の表情が和らぐ。彼は愛おしそうに明子を抱きしめた。桜の花びらが二人の周りに舞い散る。まるで二人の愛を祝福するかのように。


「君がいてくれれば僕は何だってできる気がするよ」


 和也の声には純粋な愛情が込められていた。


 二人の愛は真実だった。逸郎にはそれが痛いほど分かった。だがだからこそこの後の悲劇がより一層理解しがたかった。何がこの純粋な愛を憎しみへと変えてしまったというのだろう。


 幻の場面が切り替わる。


 季節は夏。あの口論の日だ。


 電柱の下で二人は向かい合っている。しかしその距離は春の日よりもずっと遠く感じられた。和也の顔は苦悩と怒りで歪んでいた。明子の顔には戸惑いと悲しみが浮かんでいる。


 昭和四十年代の夏は今よりもずっと暑かった。まだエアコンが普及しておらず扇風機と氷が頼りの時代だ。アスファルトからは陽炎が立ち上り蝉の声が騒々しく響いている。そんな暑さの中で繰り広げられる二人の口論はより一層痛ましく感じられた。


「嘘だと言って和也さん! そんなの嘘よ!」


 明子の声は必死だった。何かにすがりつくような悲痛な響きがある。


「嘘じゃない! これは決定事項なんだ! 親父が決めたことなんだよ!」


「お父様が決めたって……私たちの結婚はどうなるの!?」


「結婚は……なくなった。僕は別の人と結婚することになった」


 その言葉はまるで刃物のように明子の心を切り裂いた。


「別の人って……私じゃだめなの? 私のどこが不満なの?」


「君が悪いんじゃない! 僕が……僕が弱いんだ!」


「あなたの気持ちはどこにあるの!? 私たちの約束はどうなるの!?」


「……約束なんて最初からなかったのかもしれないな」


 和也は吐き捨てるように言った。自分自身への怒りを明子に向けているのかもしれない。その言葉は刃物のように明子の心を切り裂いた。彼女は何かを訴えるように懐から一通の手紙を取り出し和也に差し出した。それはいつもの藤の花の便箋だった。


「読んで! 私の気持ちは全部ここに……あなたへの想いがどれだけ深いか分かってもらえると思うの!」


 明子の声は涙で震えていた。


 だが和也はその手紙をひったくるように奪うとぐしゃぐしゃに丸めて地面に叩きつけた。


「こんなもの! もういらないんだよ! 全部終わりなんだ!」


 白い紙の塊がアスファルトの上を虚しく転がる。明子の想いが足蹴にされ踏みにじられていく。


「和也さん……」


 明子の声はかすれていた。まるで心の奥底から血を吐き出すような声だった。


 和也は一度も振り返ることなくその場を去っていった。その背中は逃げるように小さくなっていく。残された明子は地面に散らばった自分の想いの欠片をただ見つめることしかできない。やがてその瞳から大粒の涙が溢れ出し彼女は嗚咽を漏らし始めた。


 雨が降り始めた。最初は小粒だったが次第に激しくなっていく。明子は雨に打たれながらも散らばった手紙の断片を拾い集めようとした。しかし紙は既に雨に濡れ文字が滲んで読めなくなっていた。


 そこへ車の音。


 逸郎はそこで幻から引き戻された。


 胸が締め付けられるように痛い。人間の愛憎とはなんと激しくそして脆いものなのだろう。あんなにも深く愛し合っていた二人がなぜ。


「親父が決めたこと」。和也のその言葉が逸郎の頭に引っかかっていた。彼の意思ではない何か抗えない力が二人を引き裂いたのだ。そしてその怒りと絶望が愛する人への暴言として現れてしまった。


 逸郎は古い電話帳を引っ張り出した。高城建設。まだ市内で営業を続けているだろうか。


 あった。代表取締役高城和也。


 彼は父の会社を継ぎ今もこの街で生きているのだ。自分の犯した罪と引き裂いた愛の記憶を心のどこかに仕舞い込んだまま。


 逸郎は高城建設の住所を地図で確認した。市の中心部にある立派な自社ビルだ。


 自分は彼に会って何を問いただせばいいのだろう。五十年前の罪を今更どうこうできるわけではない。だが逸郎は知らなければならないと思った。明子の無念を晴らすためというおこがましい考えではない。ただ人間がこれほどまでに愛しそして憎むことができるその理由の根源をこの目で見届けなければならない。


 それは影として生きてきた逸郎が初めて「人間」そのものに深く向き合おうとする決意の表れだった。


 逸郎は一枚の便箋を取り出した。そして震える手でペンを走らせた。


「高城和也様。昭和四十八年四月十七日桜木通りにて貴方が失くされたものについてお話がしたくご連絡いたしました。人影逸郎」


 封筒に宛名を書き投函する。その時逸郎の胸はこれまで感じたことのない決意で満たされていた。


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