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【お仕事幻視短編小説】電柱が見た愛の記憶、あるいは影を描く男  作者: 霧崎薫


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第四章:記録の嘘、記憶の真実

 安西は駅前の喫茶店の窓際の席で待っていた。最後に会ったのはもう十年以上も前のことだ。白髪は増え肩も少し小さくなったように見えたがその背筋は昔と変わらずぴんと伸びていた。職人としての誇りがその姿勢に現れている。


「人影さん久しぶりだな」


 安西は昔と変わらないぶっきらぼうな口調で言った。だがその目には懐かしむような色が浮かんでいる。そしてどこか心配そうな表情も。


「いえこちらこそ急に申し訳ありません」


 逸郎は深く頭を下げた。ウェイトレスが運んできたコーヒーの湯気が二人の間の少しぎこちない空気を揺らした。


 この喫茶店は昭和四十年代から続く老舗だった。赤いビロードの椅子厚いガラスのテーブル天井から下がるシャンデリア風の照明。内装は当時のまま手つかずで保存されている。コーヒーカップも昔ながらの厚手の白磁で取っ手が小さく現代の感覚からすると少し使いにくい。だがそれがかえって昭和の香りを醸し出していた。


 安西はコーヒーにミルクを注ぎながら逸郎をじっと見つめた。


「電話で聞いたよ。五十年前の桜木通りの事故のことだったな。……なんで今更あんな古い話を? 人影さんあんたらしくないじゃないか。昔からよけいな詮索はしない人だったのに」


 安西は探るような目で逸郎を見た。逸郎はどう説明すべきか一瞬言葉に詰まった。まさか地図を見ると過去の幻が見えるなどと言えるはずもない。


「……退職してから昔の仕事の記録を個人的に整理しておりまして。その事故の記録だけがどうにも腑に落ちない点が多かったものですから」


 苦し紛れの言い訳だった。だが安西はそれ以上追及せず「そうか」とだけ呟いた。彼もまたあの事故に何らかの疑問を感じていたのかもしれない。


「俺もあの日のことはよく覚えとるよ。おかしな事故だったからな」


「……と言いますと?」


 安西はコーヒーを一口すすると窓の外に視線を向けた。まるで遠い過去の風景をそこに映し出しているかのように。


「現場に着いたらもう警察が規制線を張ってた。若い女が一人道で倒れててな。……ひどいもんだった。雨で血がアスファルトに滲んでな」


 安西の表情が暗くなった。


「運転手の若い男はただ呆然と立ってたよ。顔面蒼白でまるで魂が抜けたみたいにな。警察が話を聞いてもうわ言のようにぶつぶつと何かを言ってるだけでまともに受け答えできない状態だった」


 逸郎は身を乗り出した。


 交通事故の現場処理は昭和四十年代と現在では大きく異なっていた。当時は現在のような精密な現場検証は行われておらず事故車両の撮影も白黒フィルムで数枚程度。ブレーキ痕の測定も巻き尺による手作業だった。DNA鑑定もない時代で物的証拠の収集には限界があった。


「普通ああいう事故は現場検証だの何だので建て替えの許可が下りるまで時間がかかる。最低でも一週間下手すると一ヶ月はかかることもある。だがあの時に限っては異常に早かったんだ。事故の翌日にはもう『早急に処理するように』って会社に連絡が来た」


「早急に……ですか?」


「ああ。警察の上の方から直接な。普通じゃ考えられないことだよ。まるで何かを隠したがってるみたいだった。現場の証拠を一日も早く消してしまいたいとでもいうようにな」


 やはり何かがあったのだ。逸郎の胸が高鳴る。


「運転していた男は高城和也という青年ではなかったですか?」


 その名を聞いた安西の眉がぴくりと動いた。彼は驚いたように逸郎を見た。


「……なんでその名前を。そうだ。高城建設の跡取り息子だった。なんでお前がそれを知ってる?」


「少し調べまして」


 逸郎はごまかすように言った。


 安西はふうと長い息を吐いた。そして声を一段と低くして続けた。周囲に聞こえないよう身を乗り出すようにして。


「……ここだけの話だ。俺も後で聞いたんだがな。高城の車はかなりのスピードを出してたらしい。ブレーキ痕がそれを物語ってた。でも公式の調書にはそんなことは一言も書かれなかった。全て亡くなった彼女の不注意ってことにされたんだ」


「なぜそんなことに……」


「高城建設は当時市の大きな公共事業をいくつも請け負ってたからな。市役所の新庁舎建設駅前再開発学校の建て替え……どれも億単位の仕事だ。警察も市も事を荒立てたくなかったんだろう」


 政治的な圧力。闇に葬られた真実。逸郎の心臓がどくんと大きく鳴った。


 明子はただの不運な事故で死んだのではなかった。彼女は権力によってその死の意味さえも捻じ曲げられてしまったのだ。


「亡くなった彼女……明子さんというそうですが彼女と高城和也は婚約していたそうですね」


「ああそうだったな。だから余計に後味が悪かった。婚約者をはね殺しちまったんだからな。でも妙な話だ。高城の奴彼女の葬式にも来なかった。香典の一つもなかったそうだ。まるで赤の他人みたいにな」


 愛が憎しみに変わったのだろうか。それとも罪の意識から逃げ出したのだろうか。


「事故の原因について何か他に聞いていることは……」


 安西は躊躇うような表情を見せた。そしてさらに声を低くした。


「これは本当に噂レベルの話なんだが……事故の直前二人が大喧嘩してたって話があるんだ。近所の人が見てたらしい。高城が何かを地面に叩きつけて怒鳴りながら去った後彼女がそれを拾おうとして道に出たところを……というのがまことしやかに囁かれてた」


 全てが繋がった。明子は自分の想いを込めた手紙を拾おうとしていたのだ。愛する人が投げ捨てた自分の心の欠片を。


 逸郎は安西に深く礼を言って喫茶店を出た。冷たい秋風が火照った頬に心地よかった。


 記録は嘘をついていた。いや嘘をつかされていたのだ。真実は人々の記憶の中にそしてあの電柱の中にしかない。


 その夜逸郎は再び書斎で地図と向き合っていた。


「桜木通り五十六号」の記号にそっと指を触れる。


(教えてくれ。二人の間に何があったんだ? なぜ愛は壊れてしまったんだ?)


 意識を集中させると幻がこれまでで最も鮮明に逸郎の脳裏に広がった。


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