第三章:桜木通りの証言者
佐伯時子はカウンターの下から小さな湯呑みを二つ取り出した。手際よく急須に湯を注ぐ音が静寂な店内に響く。店内に香ばしいほうじ茶の香りが漂う。
「まあお上がりなさい。立ち話もなんだろう」
促されるまま逸郎はカウンターの脇にある小さな丸椅子に腰を下ろした。椅子は古く座ると軽くきしんだ。時子は自分の店の歴史を語るようにぽつりぽつりと話し始めた。
「この店はあたしの親の代からやってるんだ。だからねこの桜木通りのことは何でも見てきたよ。戦争で焼け野原になった時から今までずっとね」
湯呑みから立ち上る湯気が二人の間の沈黙を和らげる。時子は猫の頭を撫でながら続けた。
戦時中この界隈は空襲で大きな被害を受けた。昭和二十年四月十三日の城北大空襲では桜木通り周辺も火の海になり多くの建物が焼失した。佐伯文具店も例外ではなく時子の両親は焼け跡に小さなバラックを建ててゼロからの出発だった。当時は鉛筆一本ノート一冊が貴重品で子供たちは大切に大切に使っていた。
「明子ちゃんは向かいのクリーニング屋の娘さんでね。あの店今はもうマンションになっちまったけど当時はこの商店街の中心的な存在だった。そりゃあ明子ちゃんは綺麗な子だったよ」
時子の目が遠い記憶を辿るように細められた。
「でも美人なだけじゃない。気立ても優しくて誰からも好かれてた。お年寄りには親切だし小さい子の面倒もよく見てた。うちにもよく便箋を買いに来てたよ。いつも藤の花の柄のやつをね。手紙を書くのが好きだったんだ」
藤の花の便箋。逸郎の脳裏に幻の中で見たあの白い紙片が思い浮かんだ。
昭和四十年代の便箋は今とは比較にならないほど美しかった。印刷技術が発達し色とりどりの花柄や風景画が施された便箋が次々と発売された。特に女性に人気だったのが四季の花をモチーフにしたシリーズで春は桜夏は朝顔秋は菊そして冬は椿。だが藤の花は特別だった。高貴で上品な紫色が女性の憧れを呼び多くのメーカーが藤柄の便箋を発売していた。
「『お手紙たくさん書くのね』って聞いたら『はい大切な人に毎日書いてるんです』ってそれはそれは嬉しそうに答えてくれてね。その時の顔ったら本当に輝いてた」
時子はほうじ茶を一口すすった。
「五十年前のあの日もそうだった。ひどい雨だったねえ……。店の中からあたしは見てたんだ。明子ちゃんがあの電柱の下でずぶ濡れになって泣いてるのをね」
やはり幻ではなかった。逸郎は自分の見ていた光景が紛れもない事実であったことを確信した。
「声をかけようかと思ったんだけどなんだかとても声をかけられるような雰囲気じゃなくてね。あの子の泣き方は普通じゃなかった。まるで世界の終わりみたい……そんな泣き方だった」
時子の声がわずかに震えた。
「そしたら一台の車がものすごいスピードで角を曲がってきて……雨で視界が悪かったのかそれとも……」
時子の言葉がそこで途切れた。彼女は皺の寄った手できゅっと湯呑みを握りしめた。その指先の白さが当時の衝撃を物語っていた。
「……あっという間だった。ガシャーンってすごい音がして。あたしが外に飛び出した時にはもう。明子ちゃんは道路の真ん中に倒れてて……血が雨に混じって流れてて……」
時子は目を堅く閉じた。まるでその光景を頭から消し去ろうとするかのように。
「運転してたのは若い男だった。顔面蒼白で車から降りてきたよ。震えながら『大丈夫ですか大丈夫ですか』って何度も繰り返してた。でも明子ちゃんはもう……」
「その男は……」
「さあね。すぐに警察が来て人だかりができてあたしにはよく分からなかった。ただ後で聞いた話じゃ明子ちゃんが急に道に飛び出したのが原因だってことになってたよ。でもあたしにはどうもそうは思えなくてね……」
時子は深いため息をついた。
交通事故の法的責任は昭和四十年代と現在では大きく異なっていた。当時は「交通戦争」と呼ばれるほど交通事故死者数が多く年間一万六千人を超えていた。現在の約四倍の数字だ。事故処理も今ほど精密ではなく現場検証も限定的だった。特に歩行者の過失が疑われる場合は詳しい調査が行われないことも多かった。
「あの子は婚約したばかりだったんだ。相手は地元の名士の息子さんでね。高城さんちの和也さん。そりゃあお似合いの二人だったよ。明子ちゃんは本当に幸せそうだった。『和也さんと結ばれる日が楽しみです』っていつも話してた。それなのになんであんな……」
高城和也。逸郎の心に幻の中で見たあの白いシャツの青年の顔が浮かんだ。彼が婚約者。そして事故の直前彼女と激しく口論していた男。
「事故の少し前二人が喧嘩してるのをあたしは見たんだ」
時子は声を潜めて言った。猫が不安そうに鳴いた。
「あの電柱の下で和也さんが何かを地面に叩きつけて怒鳴りながら去っていくのをね。明子ちゃんはただ泣いてた。だから事故はその直後のことだったんだよ」
全てのピースが急速に繋がり始めていた。逸郎はゴクリと喉を鳴らした。これは単なる悲劇の事故ではない。その裏にはもっと深い人間の愛憎が渦巻いている。
「地面に叩きつけたもの……それは何だったか覚えていらっしゃいますか?」
「白い紙だった。手紙だったんじゃないかな。いつも明子ちゃんが買ってた藤の花の便箋みたいな……」
やはりそうだった。あの白い紙片は明子が和也に宛てた手紙だったのだ。
「高城和也……さんは今どうしているかご存知ですか?」
逸郎の問いに時子は首を横に振った。
「さあね。事故の後高城さん一家はすぐにこの街から引っ越していったよ。まるで何かから逃げるみたいにね。明子ちゃんのお葬式にも顔を見せなかったそうだ。香典も弔電も何もなかった」
あまりに不可解な結末。愛し合っていたはずの婚約者の死に彼はなぜ背を向けたのか。罪の意識からか。それとももっと別の理由があったのか。
「明子ちゃんのご家族は……」
「お父さんとお母さんがいたけど事故の数年後に相次いで亡くなっちまった。悲しみのあまり体を壊してしまったんだろうね。一人娘だったから跡取りもいなくてクリーニング屋も畳むことになった」
つまり明子の死と共に彼女の家族も生活も全てが消えてしまったのだ。まるで最初から存在しなかったかのように。
逸郎は時子に深く頭を下げ文具店を後にした。ほうじ茶の温かさがまだ掌に残っている。だが逸郎の心は冷たい疑念で満たされていた。
公式記録は明子の不注意による事故死。だが証言者の記憶はその裏に婚約者との深刻なトラブルがあったことを示唆している。そして事故の加害者でありながら葬儀にも現れなかった男。
記録と記憶。どちらが本当の真実なんだ?
逸郎は再び会社のOB名簿をめくっていた。安西。元工務部長。電話口で自分の仕事を褒めてくれた男。彼なら当時の現場の空気を何か覚えているかもしれない。記録には残らない人間の感情の機微を。
逸郎は受話器を取った。今度はもう声は震えていなかった。自分はただの野次馬ではない。忘れられた魂の声を現代に届けるためのメッセンジャーなのだ。その確信が逸郎に小さな勇気を与えていた。
「もしもし安西部長でいらっしゃいますか? 私人影と申します」




