第二章:忘れられた電柱番号
「もしもし私OBの人影と申しますが……」
受話器の向こうから聞こえてくる若い女性職員の明るい声に逸郎は少し気圧された。何十年も会社の歯車として生きてきたが退職してしまえば自分はただの部外者だ。用件を伝える声が自分でも情けないほどにか細くなる。
「あの……少し古い資料を閲覧させていただきたく……昭和四十年代の電柱の建て替え記録なのですが」
電話の向こうでキーボードを叩く音がする。カタカタという軽快な音が逸郎の緊張を一層高める。自分の要求が迷惑な老人の戯言だと思われているのではないかと不安で仕方がなかった。だが返ってきたのは意外な言葉だった。
「はい大丈夫ですよ。事前に申請していただければ閲覧室をご利用いただけます。……人影さんでいらっしゃいますか? 工務部の安西部長がよくお噂をされていました。『人影さんの引いた線は一本の狂いもなかった。あれは芸術だった』と」
思わぬ言葉に逸郎は絶句した。安西。口数の少ない職人気質の男だった。逸郎が新人の頃から現場でよく一緒になった。厳しい男だったが仕事に対してはとことん真摯だった。そんな彼が自分の仕事を……?
胸の奥に小さな温かい灯りがともったような気がした。それはこれまでの人生で感じたことのない静かな喜びだった。自分の仕事が誰かに認められていた。ただそれだけのことがこれほど心を震わせるとは。
「ありがとうございます。明日伺わせていただきます」
電話を切った後も逸郎はしばらく受話器を握ったままぼんやりと宙を見つめていた。
数日後逸郎は久しぶりに古巣のビルの前に立っていた。見上げるほどのガラス張りの建物は自分がいた頃の古い社屋とはまるで別物だ。当時は煉瓦作りのどこか重厚で温かみのある建物だった。それが今は無機質で洗練された現代的なビルに建て替わっている。
建物の変遷もまた時代の証人だった。戦後復興期に建てられた煉瓦造りの社屋は関東大震災の教訓を活かし耐震性を重視した設計だった。しかし高度経済成長と共に事業規模が拡大しより多くの職員を収容する必要が生じた。新しいビルは最新の免震構造を採用し地震大国日本の建築技術の粋を結集している。だが逸郎には昔の建物の方が温もりがあったように思える。
場違いな場所に迷い込んでしまったような心細さを感じながら受付で入館証を受け取り地下の資料保管庫へと向かった。エレベーターが静かに地下へと降りていく。
ひんやりとした紙とインクの匂い。その匂いだけは昔と少しも変わっていなかった。逸郎は深く息を吸い込んだ。懐かしい匂いが記憶の扉を開く。若い頃の自分がこの匂いに包まれながら夜遅くまで図面と向き合っていた日々。
案内された閲覧室で逸郎は目的のファイルを受け取った。黄ばんだ紙の束。表紙には「昭和四十八年度 設備異動記録」という文字がすでに薄れかかっている。ページをめくる指が微かに震える。
一行一行指でなぞるように記録を追った。膨大な電柱のデータが淡々と記載されている。設置撤去修繕……。そこには人々の営みは記録されていない。ただ無機質な事実の羅列があるだけだ。
電力会社の記録システムは昭和三十年代から本格的に整備された。それ以前は手書きの台帳に頼っており正確性に問題があった。昭和四十年代に入ってからはIBMの汎用コンピューターが導入されデータの電算化が進んだ。しかし当時のコンピューターは現在のスマートフォンより処理能力が低く大量のデータを扱うには限界があった。そのため重要な情報ほど紙の記録として残されたのだ。
そして見つけた。
――桜木通り五十六号柱。昭和四十八年四月十七日車両衝突事故により損傷。同月二十五日同位置に同規格品を再建。
公式な記録はそれだけだった。簡潔で無機質で何の感情も挟む余地のない事実の羅列。だが逸郎にはこの一行の裏にあの女性の嗚咽と青年の怒声が聞こえるような気がした。
車両衝突事故。それが彼女の物語の結末だったのだろうか。逸郎の心は晴れるどころかさらに深い霧の中に迷い込んだようだった。記録は真実を語っているのか。それとも何かを隠しているのか。
逸郎はその足で桜木通りへと向かった。
五十年の歳月は街の風景をすっかり変えてしまっていた。土の道は舗装され小さな商店は真新しいマンションに姿を変えている。昔の面影を残すものはほとんど見当たらない。だがあの電柱だけはほとんど変わらない姿でそこに立っていた。
建て替えられたとはいえ同じ場所に同じ役割を持って立ち続けている。逸郎にはそれがまるで何かを待ち続けているかのように見えた。失われた記憶の証人としてそこに立ち続けているのかもしれない。
電柱の表面にそっと手を触れてみる。ざらりとした冷たいコンクリートの感触。表面には長い年月の風雨に晒された跡が刻まれている。逸郎は目を閉じ意識を集中させた。
(教えてくれ。あの日ここで何があったんだ?)
だが何も見えなかった。地図を介さなければ記憶の声は聞こえないらしい。それともここは現実の世界。幻視は書斎という静寂の空間でのみ可能なのかもしれない。
失望のため息をつき目を開けた逸郎の視界に一軒の古びた店が映った。電柱のすぐ隣にある小さな文具店だ。
看板には「佐伯文具店」という文字。ペンキが剥げかかり木材も所々朽ちかけている。だがその古びた佇まいがむしろこの街の歴史を物語っているようだった。ガラス戸に書かれた文字のかすれ具合からしてかなり古くからここで営業していることが窺える。
戦後の混乱期から高度経済成長期を経てバブル崩壊後の失われた二十年まで。この小さな文具店は様々な時代の波を乗り越えてきた。昭和三十年代にはガリ版印刷機を置き地域の回覧板や町内会の資料作成を請け負っていた。四十年代には学習机や文房具の売り上げが最盛期を迎える。しかし平成に入ってからは大型文具店やコンビニエンスストアとの競争で徐々に売り上げが減少していった。それでもこの店が営業を続けているのは地域への愛着と使命感があるからだろう。
もしやこの店なら……。
逸郎は自分の柄にもない行動力に自分自身で驚きながらその店のガラス戸に手をかけた。引き戸は重くきしみ音を立てながらゆっくりと開いた。
からんとドアベルが鳴る。それは昔懐かしい金属製のベルの音だった。店内はインクと紙の匂いがした。そしてどこか懐かしい古い木材の匂いも。
店の奥のカウンターで白髪の老婆が膝の上で丸くなった三毛猫を撫でながら静かに座っていた。猫は幸せそうに目を細めている。
「……いらっしゃい」
老婆はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の中に穏やかで全てを見通すような瞳が光っていた。その瞳は長い年月をかけて数多くの人々を見つめ続けてきた深い知恵を秘めているように思えた。
「あの……少しお尋ねしたいことがありまして」
逸郎は震える声で切り出した。今までなら見知らぬ他人にましてや個人的な興味で話しかけることなど到底できなかっただろう。だが今はあの泣いていた女性の姿が逸郎の背中を押していた。
「私昔この辺りの電柱を管理する仕事をしておりまして。五十……年ほど前にそこの電柱が事故で建て替えられたのを覚えていらっしゃいますか?」
その言葉を聞いた瞬間老婆──佐伯時子の瞳がかすかに揺れた。猫を撫でる手がぴたりと止まる。猫が不思議そうに顔を上げた。
時子はしばらくの間無言で逸郎を見つめていた。その視線はまるで逸郎の心の奥まで見透かそうとしているかのようだった。
「……覚えてるよ。忘れられるわけがないじゃないか」
時子の声はひどく静かだった。だがその静けさの底には長い年月を経てもなお消えることのない悲しみの色が滲んでいた。
「あんた明子のことを調べに来たのかい?」
明子。
逸郎は息を呑んだ。幻の女性に初めて名前が与えられた瞬間だった。その名前はまるで失われたピースがぴたりとはまるように逸郎の心にしっくりと収まった。明子。なんと美しい響きだろう。
逸郎は無言で頷いた。時子は遠い目をして窓の外の電柱を見つめた。
「……かわいそうな子だったよ。本当にいい子だったのにねえ」
時子の声には深い愛情と同じだけの悲しみが込められていた。




