第九章:記憶を紡ぐ者
それから三か月後の春。桜木通りの桜が再び満開になった頃逸郎の元に一人の訪問者があった。
高城和也だった。しかし三か月前に会った時とは人が変わったように穏やかな表情をしていた。重い荷物を背負い続けていた男がようやくそれを下ろすことができたような軽やかさがあった。
「人影さんお元気でしたか」
高城は以前とは比較にならないほど自然な笑顔を浮かべていた。
「おかげさまで。高城さんもお元気そうで何よりです」
逸郎は高城を書斎に案内した。壁一面の地図を見た高城は深く息を吸い込んだ。
「これが……噂に聞いていた地図ですか。素晴らしいものですね」
高城の目は地図の隅々まで丁寧に追っていた。そして桜木通りの部分で止まる。
「明子への思いを記してくださったのですね。ありがとうございます」
高城の声には深い感謝が込められていた。
「実は今日はお礼とご相談でうかがいました」
高城は鞄から一つの小さな箱を取り出した。
「明子のものです。ご両親が亡くなった時に私の元に送られてきました。でも私にはそれを受け取る資格がないと思いずっと仕舞い込んでいました」
箱を開けると中には藤の花の押し花がきれいに保存されていた。五十年以上経っているにも関わらず紫の色がまだ美しく残っている。
押し花の保存技術は昭和四十年代にほぼ完成されていた。特殊な紙に挟んで乾燥させその後樹脂で固める技術により数十年間色褪せることなく保存することが可能だった。明子の両親がこの押し花を大切に保管していたことが窺える。
「明子が大切にしていたものです。これを適切な場所に供えたいのですが……あなたにお任せしてもよろしいでしょうか」
逸郎は押し花を受け取った。それは明子の魂の一片のように思えた。
「承知いたしました。きっと明子さんにとって一番良い場所に」
その日の夕方逸郎と高城は一緒に桜木通りを訪れた。電柱の根元にはまだ逸郎が供えた藤の花が枯れずに残っていた。
電柱の管理や周辺の清掃は通常電力会社が行うが桜木通りのこの電柱だけは佐伯時子が自主的に世話をしていた。花を替え掃除をし時には通りかかる人にここで起こった出来事を語っている。明子の記憶を守る自発的な守り人として。
二人は電柱の前に立ち静かに手を合わせた。高城は押し花を電柱の根元にそっと置いた。
「明子……やっと君に会いに来ることができた。五十年間本当に申し訳なかった」
高城の声は涙で震えていたが以前のような絶望的な響きはなかった。むしろ安らぎに満ちていた。
「君の愛を無駄にしてしまった。でも人影さんのおかげで君の想いがここに残されることになった。君は忘れられることはない」
桜の花びらが舞い散る中で二人の老人が静かに祈りを捧げる。その光景はこの街の新しい記憶として電柱に刻まれていくのだろう。
「人影さん」
祈りを終えた高城が振り返った。
「私はこれから明子のことを多くの人に話そうと思います。彼女がどれほど美しい心を持った人だったかどれほど純粋に愛したかを。それが私にできる唯一の償いですから」
逸郎は静かに頷いた。それこそが明子が最も望んでいることかもしれない。
その日から高城は変わった。会社の経営方針も見直し地域密着型の建設業に転換した。利益を追求するだけでなく街の歴史や住民の思いを大切にする建築を心がけるようになった。そして月に一度は桜木通りを訪れ明子の墓参りを欠かさなくなった。




