第三章:国際紛争
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戦況が膠着し、後藤田の焦りが頂点に達していた時だった。
「敵国が、潔白の証拠があると、我が方へ会談を求めてきました」
部下の報告に、後藤田は眉をひそめた。我々が攻勢に出る前に、一体何が?
官邸の危機管理センターの巨大モニターに、オンライン会談の様子が映し出される。敵国の代表は憔悴しきっており、その表情には、追いつめられた者と、何かを覚悟した者が混じったような、複雑な色が浮かんでいた。
「我が国は、日本政府から事実無根のサイバー攻撃の濡れ衣を着せられてきました。しかし、本日、我々はいくつかの事実を認め、そして、このサイバー攻撃の真の原因を、ここに明らかにします」
会議室がどよめく。後藤田も、予期せぬ展開に息を飲んだ。
「…認めましょう。我が国の情報機関の一部が、貴国のプロジェクトの進捗を探るため、非公式なアクセスを試みたことは事実かもしれません。しかし、それはシステムの誤作動を誘う程度の、いわば偵察行為にすぎない!」
代表は、声を荒げた。その声には、怒りよりもむしろ恐怖が滲んでいた。
「今、日本を蝕んでいる『神の福音』は、断じて我々の仕業ではない!我々は、貴国に向けられた非難の裏で、このウイルスの正体を独自に解析していました。国家の存亡をかけた危機であると判断したからです。その結果、驚くべき事実が判明したのです!」
スクリーンに、複雑なデータフローが映し出される。
「このウイルスは、我々の仕掛けた小さなハッキングを『トロイの木馬』のように利用し、システムの深層へと侵入していました。我々は、知らぬ間に、真のテロリストのために、ドアを開けてやる役割を演じさせられていたのです!」
代表はカメラの向こうの日本側代表団を睨みつけるように見つめた。
「そして、『神の福音』の発信元こそ、我が国ではなく日本国内にある!」
「これはもはや、単なるサイバー攻撃ではない!放置すれば国境を越え、全世界を巻き込むバイオハザードならぬ『インフォハザード』だ!我々は、自国の潔白を証明すると同時に、この人類全体への脅威を、発生源である貴国に警告するためにここに来た!」
日本代表は当然反論するが、鬼気迫る敵国代表の様子に、この場では真偽のほどはわからなかった。
会議は、大混乱のうちに閉会した。危機管理センターは、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「敵のプロパガンダだ!追い詰められた末の、苦し紛れの嘘にすぎん!」
「責任転嫁も甚だしい!断固として抗議すべきだ!」
誰もが敵国の主張を一笑に付そうとした。後藤田自身も、そう信じようと努めた。だが、彼の頭の中では、敵国代表の言葉が、不気味なこだまのように響き続けていた。
『トロイの木馬』『発信源は日本国内』
対策本部に戻った後藤田は、最高顧問である中坊サトシに意見を求めた。
「…彼らの常套手段ですね。攪乱情報です」
中坊は、モニターから目を離さず、いつもと変わらぬ冷静な口調で言った。
「自分たちの攻撃を矮小化し、架空の『真犯人』を作り上げ、自国が有利なように外交交渉を進めるのが狙いでしょう。気にする必要はありません。我々は、我々の分析を信じるべきです」
その言葉は、あまりに理路整然としていた。中坊が提示する分析に、論理的な矛盾はどこにもない。だが、後藤田の胸に渦巻く言いようのない違和感は、少しも収まらなかった。何かが根本的に間違っている。それは、官僚として長年培ってきた危機察知の本能が、警鐘を乱打するような感覚だった。
なぜ、我々の対策は常に後手に回る?
中坊が夜を徹して作り上げる防御パッチは、常に完璧に見えた。しかし、それをあざ笑うかのように、「神の福音」はより巧妙な手口で汚染を拡大し続ける。それはもはや、技術力の攻防ではない。まるで、未来を予知しているかのような、不自然なまでの先回り。こちらの動きが、すべて筒抜けになっているとしか思えなかった。
何より不可解なのは、敵国とのオンライン会談以降の変化だ。彼らは憔悴しきった顔で「ハッキングは止めた」と主張した。プロパガンダだ、と誰もが一笑に付した。だが、公安調査庁からの極秘報告によれば、確かに敵国からの大規模な攻撃トラフィックは観測されなくなっている。
それなのに、「神の福音」の汚染拡大は加速している。
なぜだ?敵が嘘をついているのか? それとも?
連日の激務で疲れているんだ。 だからこんな妄想に取りつかれるんだ。
彼はこの国の救世主だぞ。希望の象徴だ。そんな彼を疑うなど、どうかしている。後藤田は頭を振って、己の中に芽生えた不敬な考えを打ち消そうとした。
だが、心の棘は抜けない。あの夜、対策本部で聞いた中坊の言葉が、耳の奥で不気味に響き続けていた。
『彼らは、人間の最も弱い部分を熟知している。愛、孤独、承認欲求…そういう、非合理なバグを的確に突いてくる』
後藤田は、今までその言葉を「敵ハッカーへの鋭い分析」だと信じてきた。しかし、万が一、違ったら? もし、あれが第三者への分析などではなく、彼自身の思想の告白だったとしたら…?
その恐ろしい仮説に、背筋を這い上がる悪寒を覚えた。
もしそうだとしたら、全ての辻褄が合いすぎてしまう。稚拙な敵国のハッキングを隠れ蓑にした、内部からの犯行。こちらの防御策を知り尽くした上で、それを無力化し続ける手口。そして、「神の福音」の根幹にある、人間心理を完璧に掌握した設計思想…。
「まさか…」
声が漏れた。考えすぎだ。疲れているのだ。だが、一度芽生えてしまった疑念の毒は、後藤田の思考を確実に蝕んでいく。国家の存亡がかかったこの状況で、「万が一」を見過ごすことは、彼の立場では許されない。
この恐ろしい仮説が、単なる自分の妄想であることを証明するために。後藤田は、人生で最も重い決断を下した。
彼は、警察庁から推進室に出向してきている信頼する部下、橋本を自室に呼び寄せた。
「橋本君、君に極秘の調査を命じる」
後藤田のただならぬ気配に、橋本は背筋を伸ばした。
「敵国の主張…『トロイの木馬』と『国内の発信源』。これが真実である可能性を、ゼロベースで洗ってほしい。中坊最高顧問には、絶対に知らせるな。これは、国家反逆罪の可能性をも視野に入れた捜査だ。君のチームだけで、極秘裏に進めてくれ」
「…承知いたしました、室長」
橋本は、後藤田の目の奥にある深い苦悩を読み取り、静かに敬礼した。
それから数日、後藤田は平静を装いながら、橋本からの報告を待った。中坊の前では、今まで通り敵国との戦いに邁進する指揮官を演じ続けた。その時間は、永遠のようにも感じられた。
そして、運命の夜が訪れる。後藤田の私用端末に、橋本から一本の暗号化通信が入った。
「…見つけました」
橋本の声は、興奮と恐怖で震えていた。
「室長…敵国の主張は、正しかったのかもしれません。いや、彼らの認識すら、生ぬるいものでした」
橋本が送ってきたデータは、後藤田の最後の希望を粉々に打ち砕いた。
そこには、中坊が設計した最新の防御パッチの、本当の姿が記されていた。敵国の攻撃コードは確かにブロックされている。しかし、その内側には、意図的に作られた巨大なセキュリティホール…橋本が『聖域』と名付けたバックドアが存在していた。
「この『聖域』は、『神の福音』の信号パターンを持つプログラムだけを通過させ、OSの深層部で、他のどのプログラムからも干渉されないよう、完璧に保護しています。これは…」
橋本は、言葉を句切った。
「これは、敵の攻撃から、本物のウイルスを守るための『盾』です。そして、こんな複雑な盾を、HTX2000のシステムに組み込める人物は…世界に一人しかいません」
後藤田の頭の中で、全てのピースが、悪夢のような形に噛み合った。
敵国のハッキング。それを隠れ蓑にした、日本国内からの大規模な攻撃。そして、その両方を完璧にコントロールできる立場にいる人物。
中坊サトシ。
彼こそが、敵国の攻撃すらも利用した「真のテロリスト」だったのだ。
後藤田は、静かに通信を終えると、上着を掴んだ。
絶望ではなかった。怒りでもなかった。ただ、全てを終わらせなければならないという、冷たい使命感だけが、彼の体を支配していた。
彼は、誰にも告げず、一人、夜の闇へと車を走らせた。向かう先は、全ての答えがあるはずの場所。山奥に立つ、天才の城塞だった。
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