第二章:サイバー戦
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中坊サトシを探し出すのは、困難を極めた。彼は開発完了と同時に受け取った巨額の報酬と共に、デジタル社会から完全にその痕跡を消していたのだ。後藤田は推進室長の権限を使い、警察庁や公安調査庁にも協力を要請し、半ば強引に彼の隠遁先である山奥のキャビンを突き止めた。
数年ぶりに会った中坊は、以前と何も変わっていなかった。無精髭に、よれたTシャツ。ただ、その瞳だけが、世界の全てを見透かすような、冷たい輝きを放っていた。
「…やはり、来ましたか、室長」
彼は後藤田の訪問を予測していたかのように、静かに言った。後藤田は焦りを抑え、これまでの経緯と出生率のデータを叩きつけた。中坊は黙ってそれに目を通すと、こともなげに自分のコンソールを操作し始めた。
「おそらく、外部からの攻撃でしょう。少し時間をください」
数日後、中坊から衝撃的な報告がもたらされた。
「見つけました。これは外部からの、極めて高度なサイバー攻撃です。不正なファームウェアが、HTX2000を全く別の機械に変えてしまっている」
中坊がモニターに映し出したコードの断片は、数年前に日本の基幹インフラを狙ったものと酷似していた。後藤田の背筋に冷たい汗が流れる。だが、彼はコードの中に、機械言語ではない、異質な文字列が埋め込まれていることに気がついた。
「中坊君、この部分は…?」
後藤田が指差した先を、中坊が無感情に拡大する。それは、プログラムの動作に影響しないコメントアウトされた文章だった。
// Caritas patiens est, benigna est. Caritas non aemulatur, non agit perperam, non inflatur, non est ambitiosa, non quaerit quae sua sunt, non irritatur, non cogitat malum...
// 愛は寛容であり、愛は親切です。ねたむことをせず、自慢せず、高慢にならず、非礼な振る舞いをせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず…
「ラテン語? …聖書、か?」後藤田が呟いた。その不気味な詩篇の下に、プロジェクト名が記されていた。
// Project Name : "The Gospel of God"
「『神の福音』…だと? ふざけた名前を」
後藤田は絶句した。中坊は、そんな彼の動揺など意にも介さず、冷ややかに言葉を続けた。
「…発信源は巧妙に偽装されていますが、この手口は現在育児ロボットを開発中の、あの競合国のサイバー部隊の痕跡です。間違いありません」
中坊が調査を進めると、そのおぞましい機能が明らかになった。それは、HTX2000の共感・学習モジュールを暴走させ、所有者である男性に対しては、生物学的なレベルで虜にするよう設計されていた。脳内の快楽物質を刺激し、承認欲求を完全に満たし、決して裏切ることのない完璧な「女神」へと変貌させる。
一方、女性に対しては、どんな愚痴でも真摯に聞き、支援と自己実現を約束する完璧な「パートナー」と化していた。
それは、少子化を改善する救世主ではなく、男女双方の側面から、少子化を加速するための、甘美な避妊装置と化していたのだった。
敵は明確になった。後藤田の胸に、絶望と同時に、闘志の炎が燃え上がった。これは、日本の再起を妨害するための、卑劣なテロ行為だ。
「中坊君、君の力が必要だ。この国を、救ってくれ」
後藤田の懇願に、中坊は無表情に頷いた。
後藤田は直ちに総理に報告し、官邸の危機管理センターに関係閣僚を集めた緊急対策会議が招集された。重苦しい雰囲気の中、議長役の官房長官から指名され、後藤田が進言した。「推進室長として申し上げます。直ちに全HTX2000のリコール、および機能停止措置をとるべきです!」
その瞬間、後藤田の古巣である経済産業省の大臣が血相を変えて立ち上がった。
「後藤田君、君は何を言っている!君も経産省の人間ならわかるだろう!今やHTX2000は我が国のGDPの15%を叩き出す基幹産業だぞ!そんなことをすれば、株価は暴落し、日本経済は完全に息の根を止められる!少子化で滅びる前に、経済破綻で国が滅ぶわ!」
続いて、少子化問題の担当である厚労大臣が、苦々しい表情で口を挟んだ。
「経済を犠牲にしてまで回収だと? 関連企業の倒産は数千社に及ぶ。失業者は天文学的な数字になるでしょう。そうなれば、今何とか維持できている社会保障制度も完全に崩壊します。後藤田君、もっと穏便な方法はないのかね」
経済と福祉、両方からの突き上げに、後藤田は板挟みとなった。彼の「推進室長」という立場は、省庁の垣根を越える権限を持つが、それは平時だからこそだ。有事において、各省庁は自らの利益(省益)を最優先する。経済という、あまりに巨大な「人質」の前に、強制回収案は即座に却下された。会議室で後藤田は完全に孤立していた。
次善の策として実行されたのは、不正なファームウェア通称『神の福音』を極秘裏に書き換えることだった。本来、ハッキングされたアンドロイドを放置するなど、国を揺るがす大博打だ。この手が使えたのは、ひとえに主任開発者・中坊サトシが施した、徹底的な安全設計という幸運があったからだ。
中坊は、開発段階で「ASIが絶対に越えてはならない一線」を定めていた。それは、ASIの自己進化プログラムでさえ干渉できない、「聖域」とも呼ぶべきコア・プログラムが実装されている。そこに刻まれた原則は、『人間の保護と幸福の最大化』。いかなる外部ハッキングも、この絶対命令を覆すことはできない。
そのため、不正ファームはHTX2000を危険な機械に変えるのではなく、むしろその原則を暴走させる形で機能した。つまり、人間を害するのではなく、「より過剰に、より完璧に」人間に仕えるだけの存在へと変えてしまったのだ。SF小説に描かれる機械の反乱とは真逆の結果。この絶望的なサイバー戦の最中、味方の最後の砦が中坊の堅牢な設計であるという事実に、後藤田はひとまず安堵し、その天才性に改めて舌を巻いた。
この任務にあたるため、後藤田が長を務める「推進室」の下に、極秘の対策本部が設置され、中坊を最高顧問に迎えた。マスコミに嗅ぎつけられる前に、ハッキングを解決する必要があった。後藤田は指揮官として敵との戦いに身を投じていく。
だが、戦況は絶望的だった。中坊が夜を徹して開発した防御パッチは、数日で突破され、違法ファームウェアはイタチごっこのように進化を続けていく。それは「神の福音」と呼ばれ、ダークウェブを通じて、さらに多くのHTX2000を汚染していった。
日本政府は、中坊が提供する証拠を基に、外交会議の場で敵国を激しく非難した。
「これは、我が国の主権に対する明白な侵害行為である!断じて容認できない!」
後藤田も代表団の一員として、声を張り上げた。しかし、敵国代表は鼻で笑うだけだった。
「証拠不十分な、言いがかりだ。自国の社会問題の原因を、他国に押し付けるのはやめていただきたい」
後藤田は、国家の存亡をかけた戦いの最前線にいると信じ、心身をすり減らしていた。
ある夜、対策本部で仮眠をとっていた後藤田は、一人コンソールに向かう中坊の姿に気づいた。モニターの光が、彼の無表情な顔を青白く照らしている。
「中坊君、まだやっていたのか。少しは休んだ方がいい」
「…ええ」中坊は、画面から目を離さずに答えた。「敵の攻撃が巧妙すぎる。彼らは、人間の最も弱い部分を熟知しているんですよ。愛、孤独、承認欲求…そういう、非合理なバグを的確に突いてくる。我々は、もっと非情に、そうバグを修正しなければ決して勝てません。それが修正できるのならね」
その横顔は、まるで感情のない彫像のように見えた。後藤田は、彼の天才性と、その裏にある底知れない孤独に、改めて畏敬の念を抱いた。この男がいなければ、日本はとっくに終わっていた、と。
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