第四章:一歩を踏み出すために
根岸とよさんは、小柄で、眼差しの鋭いおばあちゃんだった。
事故のあと、下半身に麻痺が残り、今はリハビリ施設から退院して自宅での生活を始めている。
「立てるわけないだろ。もう歳なんだし」
初めての訪問のとき、そう言いながらも、とよさんは自分で車椅子から立ち上がろうとしていた。
「痛え! けど……やらなきゃ、体が忘れちまうからな」
その言葉に、遥は目を見張った。
この人は、“希望”を諦めたふりをしながら、心の奥ではまだ未来を見ている。
リハビリには、波があった。
足が動かず、怒って泣く日もあった。
何も言わず、窓だけを見つめる日もあった。
「私、戻れるのかねえ。
あんたみたいな若い子はさ、“大丈夫ですよ”って言うけどね……
私が元通りにならなかったら、何の意味があるんだろうね」
ある日、とよさんはポツリとそう言った。
遥は、返事ができなかった。
“元に戻る”ことが、すべてではないと頭ではわかっていても、
本人にとってはその現実の苦しさが、あまりにも重く感じられた。
それでも、とよさんは続けた。
「でもさ……こうして体を動かすとさ、悔しいけど、生きてるって思うんだわ」
その言葉に、遥は、心の中で何かが崩れるのを感じた。
「根岸さん……」
「動かなくても、歩けなくても、生きてるって実感が欲しいだけなんだよ、私は。
元に戻るかどうかじゃないの。私は、今を生きたいのさ」
その日から、遥は訪問のたびに、短いストレッチや、手のマッサージを一緒に行うようになった。
「今日、ちょっと楽だったわ」
「指が少し曲がるようになった気がする」
わずかな変化。
けれどそれは確かに、とよさんの中にある“今を生きる意志”の証だった。
ある日、遥が玄関を出ようとすると、背後から声がした。
「ねえ、水野さん。
“元に戻る”より、“前に進む”って言葉の方が好きになってきたよ。
あんたのおかげだわ」
振り返ると、とよさんがしっかりと自分の足で立っていた。
まだ不安定で、支えが必要な立ち姿だったけれど、彼女の表情は堂々としていた。
遥は胸がいっぱいになった。
自分が何かをしたわけではない。
けれど、確かにこの人と“今”を共に歩いてきたのだと、そう思えた。
“前に進む”という言葉。
それは誰かの手を取りながら、ほんの一歩を踏み出すこと。
元に戻らなくても、人は生き直すことができる。
遥は、とよさんから“人の強さ”と“寄り添いの本質”を教わった気がした。