ただ、側にいるということ
藤川千夏さんと初めて会ったのは、病室ではなく、自宅のリビングだった。
若く、明るく、そして驚くほど穏やかな笑顔。
遥は、その印象に拍子抜けするほどだった。
「保健師さん? わざわざありがとう。わたし、案外元気でしょ?」
そう言って笑う千夏さんの声は、病気のことを忘れさせるほど力強かった。
──でも、知っている。
この方が、がんの末期にあるということを。
彼女の病状は緩和ケアの段階に入っていた。
家族の希望で、在宅で過ごせる限りは自宅で、と決まったばかりだった。
訪問のたびに、千夏さんは遥を歓迎してくれた。
お気に入りの紅茶を淹れてくれたり、昔の旅行のアルバムを見せてくれたり。
痛みや体調の変化を聞くのが仕事なのに、気づけばいつも遥の方が話を聞いてもらっていた。
「ねえ遥さん、思うんだけど……
“最後まで生きる”って、“明日がある”って信じることだと思うの」
ある日、千夏さんはそう言った。
「明日があると思って寝ること。起きられなくなったら、それはそれでいい」
その言葉の強さに、遥は何も言えなかった。
千夏さんが手紙を託してくれたのは、最期の訪問の数日前だった。
「読まないでね。私がいなくなったら、渡してもらう用よ。
でもね、遥さんにはもう一通。今、読んでほしいやつ」
手渡された封筒の中には、短い言葉が綴られていた。
⸻
“何もできなくても、あなたが側にいてくれるだけで、私は生きていると思えました。”
⸻
その夜、遥は家で泣いた。
何度も、何度も、封筒を胸に抱きしめて。
翌朝、父の隣に静かに座った。
何も言わず、ただ、肩に手を添えた。
そのぬくもりが、ほんのわずかに震える父の指先に届くような気がした。
──話せなくても、何かが伝わる。
──ただ、ここにいる。それだけでいいときがある。
医療でもなく、言葉でもなく、
ただ“人としてそばにいる”という支え方があると、千夏さんが教えてくれた。
遥はもう、自分の無力さを恐れなくなった。
ポロシャツの袖をまくり、次の一歩を踏み出す。
誰かの一日が少しでも穏やかになるなら、それだけで、きっと意味がある。