第二章:忘れられた日々の中で
「こんにちは、水野です。おじゃましますね」
そう声をかけながら、遥は佐伯すみえさんの玄関をくぐった。
築年数の古い木造平屋。縁側には干し柿が揺れている。
認知症の症状が進んできて、独居での生活が少しずつ難しくなってきている——
そうケアマネジャーから伝えられていた。
「今日は何の用? あなた……誰だっけ?」
すみえさんは、遠くを見るような目をして、遥に尋ねた。
「水野です。保健師の。週に一度、体調の確認に来ていますよ」
にこやかに答えると、すみえさんはしばらく考えて——
「ああ、由美ちゃんかい?」
遥は一瞬とまどった。
けれど、少し笑って「うん、そうかもしれませんね」と返した。
毎週の訪問。すみえさんは、会うたびに遥を違う誰かと間違えた。
娘の由美さん、若い頃の妹、時には亡くなった母親の名前まで出てくる。
一度も「水野さん」と呼ばれたことはない。
でも不思議だった。
名前は忘れても、すみえさんの中には「誰かに会いたい」という感情が確かに残っている。
ある日、遥が味噌汁の香りを「いい匂いですね」と言うと、
「昔、母ちゃんがよく煮干しで出汁をとってたのよ」
そう言って、すみえさんは懐かしそうに笑った。
その表情は、娘と間違われたままの遥に向けられたものだったけれど、
その瞬間に確かに“心”が通じ合ったように思えた。
──記憶は消えていくけれど、感情は生きている。
忘れられても、想い出せなくても、
心の奥にはずっと何かが残っているんだと、遥は思った。
帰り際、すみえさんがふいに言った。
「今日は楽しかった。ありがとね、由美ちゃん」
遥は、ただ笑ってうなずいた。
ポロシャツの胸元の名前を隠すように、手を添えた。
──水野遥じゃなくてもいい。
──この人にとって、大切な誰かになれているのなら。
感情に寄り添うことは、過去を思い出させることよりも、
今この瞬間を安心に包むことかもしれない。
そんなことを思いながら、遥は次の訪問先へ向かった。
秋の風が、少しやさしくなった気がした。