第一章:名前の入ったシャツ
初めてユニフォームに袖を通した日、遥は鏡の前で小さく息を吸い込んだ。
胸元に「さくら市地域包括支援センター」と刺繍された薄桃色のポロシャツ。
──これが、わたしの“はじまり”なんだ。
そう自分に言い聞かせながらも、心は不安でいっぱいだった。
「いってきます」
玄関で声をかけると、車椅子に座る父がちらりと顔を向けた。
けれど、返事はない。
脳梗塞の後遺症で、父の言葉も、表情も、遥の記憶の中にある“父親”とは別人のようになっていた。
──わたしが保健師になったこと、わかってるのかな。
──喜んでくれると思ってたのに。
少しだけ、胸がつまる。
配属された地域包括支援センターでは、毎日が慌ただしく過ぎていった。
電話対応、相談業務、在宅訪問、記録、報告、会議……。
「保健師って何する人なの?」
「もう来なくていいですよ。うちのことは家族でやりますから」
そんな言葉をかけられることもあった。
人に寄り添いたいと思って選んだ仕事だったのに、どこかで疎まれている気がする。
仕事帰り、自宅に戻ると、また沈黙の時間が待っていた。
父の隣に座っても、彼はただ前を向いているだけ。
それでもある日から、遥はその日に起きた出来事を父に語るようになった。
言葉が返ってこないと分かっていても、話すことに意味があるような気がして。
「今日ね、訪問先のおばあちゃんの家で猫を見たんだよ。
……お父さん、昔、猫好きだったよね」
その時だった。
父の口元が、わずかにほころんだ。
ほんの一瞬。
けれど、それは確かに「笑み」だった。
遥は思わず、ふっと笑ってしまった。
たったそれだけで、その日一日が報われた気がした。
──言葉がなくても、伝わることがある。
その小さな気づきが、遥の心にぬくもりを灯した。
ピンクのポロシャツは、まだどこかぎこちない。
けれどそれは、誰かの人生に触れる“覚悟”の重みなのかもしれない。
明日もまた、新しい誰かのもとへ。
少しずつ、このシャツが馴染んでいくように。