95(壮烈)
礼拝堂は王都で最も荘厳な場所の一つであった。天井には歴代の聖人たちを描いたフレスコ画が広がり、石造りの柱は静かに信仰の重みを伝えていた。だが今、その神聖な空間は瘴気にまみれ、ひたすらに冷たく、不浄で、凍てつくような空気に包まれていた。
最初に突入したのは、シグルド王の部隊だった。護衛を傍らに神官も前衛に立ち、聖句を唱えながら瘴気を払おうとするが、礼拝堂に渦巻く禍々しい気配の前では恐怖が先に立ち、声は震え、歩は鈍る。
そのとき、先頭の兵士がふと眼を疑った。暗闇から影のように滑り出たゼレファス――これまで異形ではあったものの、野生の獣としての性質が強かったはずの存在が、手に長剣を握っていたのだ。刃の冷たく濡れた光と、扱い慣れた動きが示す明確な知能。それは単なる怪物以上の恐怖を彼の心に植えつけ、怯えは瞬く間に部隊全体へと広がった。
次の瞬間、その尾が護衛ごと神官たちを薙ぎ払い、彼らは無残に床へと転がった。「ひ、引けっ……!!」と叫んだ兵士が、目にも止まらぬ速さで接近してきたゼレファスに噛みつかれ、胴体ごと引き裂かれる。シグルドは前に出ようとするが、すぐさまもう一体の第二世代が槍を構えて襲いかかる。あまりの膂力に押し負け、兵たちは次々と倒されていく。
「あ、悪魔……もうお終いだ」マウリクスの顔は青ざめ、ヴァルドは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「このままでは……!」そう思ったその時――
「殿下、伏せてください!」――第三部隊、レオン一行が突入。ゲルハルトが目にも止まらぬ速さでシグルドの前へ割って入り、迫り来る第二世代の槍を受け止める。筋骨隆々とした異形、全身を鱗で覆い、顔の中央に単眼を持つそのゼレファスは、常人の倍以上の体格を誇り、振るう一撃ごとに空気を震わせる。
「ッ……腕が……抑えてるうちに早く整えろ!!」と叫ぶゲルハルトに、リオスが後方から弓を放つ。矢はゼレファスの肩口に突き刺さり、一瞬の隙が生まれる。
その一方――
礼拝堂の中央部――瓦礫と血で染まった石畳の上を、もう一体の第二世代ゼレファスが滑るように移動していた。剣を手にし、重厚な鎧のような鱗に覆われた巨体は、人間の戦技を嘲笑うかのように洗練され、速く、重く、そして致命的だった。イレガンが先んじて突撃、盾で剣撃を受け止めるが、衝撃で膝をつき、吹き飛ばされる。その背を支えようとしたリオスも遅れを取る。
ザモルトは柱の影からそれを見つめ、呼吸を整えた。礼拝堂内に散らばる破損した装飾品、倒れた像、崩れた祭壇。すべてが彼の頭の中で「罠」の材料として組み上がっていく。
(イレガンが吹き飛ばされやがった……まずい――が、ここで引き離せば……!)
低く唸るように呟き、崩れた香炉を蹴り飛ばして囮に使う。その背後から飛び出したザモルトが、斜めに裂けた柱を利用して罠を張る。ゼレファスがそれに気づかぬまま突撃してきた――
「いけるッ!!」
が、その瞬間――ゼレファスの尾が一閃。読み切られていた。
ザモルトは盾ごと弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。肺の中の空気が抜け、視界がぐらつく。衝撃で手の力が抜け、握っていた斧が指の間から滑り落ち、床を転がった。
「……ッ、クソがッ……!」
地を這い、立ち上がるザモルト。血でにじむ視界の中、イレガンとリオスが彼の名を叫んで駆けつけようとしていた。
「来んな……!!」
その叫びと共に、ザモルトは最後の策に出た。
(あの俊敏さと力強さ……誰かが動きを止めなきゃ、全員殺られる)
左脚を引きずるようにしながら、斜めに倒れかけた柱の影へ滑り込む。ゼレファスはすでにその剣を携えた異形の巨体を静かに、しかし確実に迫らせてきていた。
「ふざけるなああああああっ!!」
イレガンは叫び、ザモルトの元へ駆けつけようとする――が、吹き飛ばされた衝撃で体が動かない。
(さて……ここからが大勝負ってやつだな……)
息を切らせながら、ザモルトは腰の袋から一つの小瓶を取り出す。液体の中には紫黒色に濁った毒素が揺れていた。これは彼が旅の中で偶然発見した希少な“神経遮断毒”――
一時的とはいえ、筋肉の動きを封じる特性を持つが、対象に直接打ち込む必要がある。併せて準備していた短剣には刃の先に小さな穴があり、中空構造で中に毒液を入れておけ、突き刺すと毒が圧力で注入される。
(一部は人型の化け物……絶対に効果はあるはずだ!)
「こいつはとっておきだぜ……。こんな時のためのなぁ……」
ザモルトが瓶の栓を歯で抜き、空洞刃に注入したそのときだった。
ガリッ――
耳を劈くような音とともに、地面に響くような重圧が走った。
「……ッ!?」
振り返る間もなかった。
ゼレファスの大顎が容赦なく振り下ろされ、ザモルトの左大腿部から先をまるごと食いちぎったのだ。血飛沫が吹き上がり、礼拝堂の敷石を赤黒く染める。
「がああああああああああッ!!」
断末魔のような悲鳴。それでもザモルトの目は決意を宿したままだった。震える手を無理やり押さえつけながら、毒を仕込んだ刃を、ゼレファスの露出した足元へ――突き刺す。
「おらぁぁぁぁぁあぁ!!味わいやがれッ!!」
傷口に異物が入った瞬間、ゼレファスは短くうねるような唸り声を上げた。巨体を大きく仰け反らせ、尾を振り回しながら周囲を無差別に薙ぎ払う。破壊された柱が吹き飛び、礼拝堂の壁面に深々と亀裂が走る。
「下がれ!!」
リオスが叫ぶや否や、兵たちは悲鳴を上げて散開する。ゼレファスの尾が振るわれるたび、石畳が砕け、空気が鋭く裂かれる。近くにいた兵士の一人は咄嗟に盾を構えるが、容赦ない尾の一撃に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
しかし、それでも暴れまわるゼレファスの様子には、どこか異常な兆候があった。突如として一歩踏み出した脚がもつれ、巨体がわずかにぐらついた。剣を持っていた右腕が、細かく痙攣し始める。視線が定まらず、異形の単眼が左右に揺れ、何かを探すように彷徨っていた。
「……効いてるな……!」
遠巻きに見ていたリオスが、弓を構えたまま呟く。ゼレファスの動きが、明らかに緩慢になっていた。筋肉が硬直し、意志とは関係なく暴走しているかのような挙動――神経に異常が生じている証拠だった。
突如、ゼレファスは咆哮とともに、頭部を柱に何度も打ち付けはじめる。苛立ちか、痛みによる混乱か、いや、内側から自身を蝕む毒への本能的な拒絶か。剣を握っていた右腕が、力なく垂れ下がる。一歩、また一歩と、脚取りが鈍くなる。
足元をふらつかせながら、それでもゼレファスは最後の本能を振り絞って突進しようとする――が、もはやその巨体は、かつてのような圧を感じさせなかった。毒が確実に、そして静かにその肉体を蝕んでいたのだ。
ザモルトは歯を食いしばり、血で濡れた口元から笑みを浮かべた。
「ようやく効いてきたか……この化け物が。罠師ザモルトを舐めんじゃ……ねぇぞ……」
血に染まった視界の向こうから、リオスとイレガンの声が聞こえた気がした。
「……頼んだぜ……相棒……」
崩れ落ちるように伏したザモルトの大腿部から、まだ温かい血が流れ出していた。
ザモルトの無残な姿に、イレガンの瞳が燃える。
「くたばれッ!!」
転がっていた斧を両手で広い上げ、跳躍と共に振り下ろす。巨大な単眼を真っ二つに断ち割るように――鈍い裂ける音と共に、ゼレファス第二世代が崩れ落ちた。
しかし、イレガンの胸元には、遅れて反応した尾の一撃が深く刺さっていた。
斧を握ったまま膝をつき、倒れ込むイレガン。目の光が、徐々に消えていく。エメルは叫び、レオンやバロムも息を呑む。
リオスは叫ぶ。
「ゲルハルト!!……ザモルトと、イレガンが殺ったぞ!!」
ゲルハルトは応戦の中、短く目を伏せ、言葉なく剣を振るい続けた。
ザモルトとイレガンの死は、決して無駄ではなかった。彼らの行動と犠牲が、勝利の一手をもたらした。
「もう……誰も死なせんぞ!」とレオンが叫び、ゲルハルトとともにもう一体の第二世代を討伐するため、前線へと踊り出る。その姿に兵たちの士気は高まり、徐々に優勢へと傾いていく。
しかしその時――
礼拝堂の最奥、ベルド達が抑えていた本体のゼレファスに動きがあり、その姿が露わになった。
その身は巨体ながら人間の女の形をなぞるようで、髪の質感や色彩には、かつてのミリアの面影があった。しかし瞳は一つ、額に輝くような単眼。口は人の数倍にも及ぶほど大きく、鋭く湾曲した牙が並ぶ。肌は死者のように蒼白く、全身から異質な瘴気を吐き出していた。
「……あれが、本体……」
ベルドは祈りを続けていた。周囲の護衛兵のほとんどはすでに命を落としていたが、祈りによって瘴気は薄まっていた。
ベルドは短剣を取り出し、兵士たちの隙間を縫うように本体へ投擲する。三度目の短剣が、ついにその鱗と鱗の隙間に突き刺さる。
「――準備は整った」
ベルドは静かに、決戦の時を見据えていた。