94(背水)
王城内部。血と硝煙、獣の臭いが立ち込める回廊。石壁は裂かれ、瓦礫が散乱し、ところどころで黒ずんだ瘴気が風に乗って這うように揺れていた。
シグルド王子の部隊が先に礼拝堂へと続く中央回廊にたどり着いていた。残るゼレファスの分体がいないか慎重に探索を進めていたところ、背後に兵のざわめきが起きる。
「敵か!?」
緊張が走る。しかし、闇の奥から現れたのは、長らく姿の見えなかったレオン一行だった。ゲルハルト、リオス、ザモルト、バロム、エメル――そしてレオンが堂々と姿を現す。
瞬間、シグルド側の数名の兵が剣に手をかけた。
「貴様ら……反逆者どもが!」
ゲルハルトが静かに前に出ようとするも、ザモルトが苛立ちを隠せず一歩踏み出す。
「てめぇら、敵味方の区別もつかねぇのか? 今はこの蜥蜴共を叩き潰すのが先だろうが……!
それに――忘れたとは言わせねぇぞ。俺たちを暗殺しようとしたのは、どこのどいつだったか……!先に牙を剥いたのは、てめぇらの方だ!!」
不穏な空気が充満する――が、それを断ち切ったのは、シグルド王子の一喝だった。
「やめよ!」
その声は、天井の残響にすら重く響いた。
「今は争っている時ではない。目を覚ませ、我らの目的をはき違えるな!」
全員が動きを止めた。シグルドの鋭い視線が回廊全体を貫いた。
「この王都を、民を、命を……我らは守るのだ」
そして、静まり返る中で、シグルドは一歩進み出て、向かいに立つレオンにまっすぐ視線を送った。
「レオン。貴殿の力を借りたい。一時休戦とし、共に立とう」
短く、だが確かにうなずいたレオン。その瞳には、敵意ではなく決意の光が宿っていた。そして静かに口を開いた。
「……この状況を招いたのは、私たちの責任だ。すまない。――ありがとう、シグルド殿」
やがて誰からともなく剣を下ろし、静寂が戻る。
回廊を進み、礼拝堂手前の広間へと踏み込んだ一同。そこには、荒れ果てた戦場の残骸が広がっていた。折れた槍、血にまみれた盾。無残に倒れた兵士たちの亡骸。そして、その中心――
ベルドが両膝をつき、祈りを捧げていた。
彼の傍らには、静かに倒れ伏す二つの人影。クラウスと、ダグラスだった。
「ダグラス……クラウス……うそ、うそ……でしょ……」
エメルが息を詰まらせ、崩れるように地面に手をついた。涙が頬を伝い、嗚咽が声にならず零れる。
バロムが俯き、レオンも押し黙る。ザモルトが険しい表情のまま唇を噛み締め、誰も言葉をかけられなかった。
「……その終わりを、見届けさせてもらった」
沈黙を破ったのは、ベルドだった。静かな声だったが、全員の耳に届いた。
「彼らは最期まで勇敢に……命を捧げたよ」
ベルドの言葉に、エメルは顔を両手で覆って泣き崩れた。
「残念ながら、ここにいた兵のほとんどが命を落とした。大型のゼレファスによる蹂躙だった。だが――」
ベルドは立ち上がり、礼拝堂の方角を睨んだ。
「今なお、その奥に、より巨大な気配がある。三つ―― 一つは、中心。おそらく"本体"だ。残る二つがそれを護っているようだ」
静まり返った空気が、緊張で張り詰める。
「ここで兵を再編成する。三部隊に分かれて、突入の準備を整えるぞ」
ベルドは厳かに指示を出す。
「第一隊。私と共に動く。私は"祓い"に集中する。神の加護と術式が乱されぬよう、周囲の遮断と護衛、そしてゼレファスの動きを抑える役目を担ってもらう」
シグルドが頷き、すかさず名乗り出た。
「第二隊は私が率いよう。この戦い、王族の責務として必ず終わらせる」
「それなら、俺たちが第三隊か……」ゲルハルトが肩を回しながら応じる。「ゼレファスっていうのは、あの化け物の名前だろ?必ず、抑えてみせる」
ベルドが短く頷く。
「我らは全てを曝け出し、この災厄を断たねばならぬ。死者の無念を、決して無駄にするな」
その中で、エメルが一人、地に膝をついて泣き崩れていた。命を落としたクラウス、ダグラス。かつて兄のように慕っていた彼らの最期を思うと、涙が止まらない。嗚咽が喉をふさぎ、呼吸すらままならない。
「……あとで、丁重に弔ってやろう」
リオスの低く抑えた声が、静かにエメルの肩へと届く。優しさも、悲しさも、言葉の奥に隠されていた。ただ、胸の内に重く染み込むような声だった。
リオスはちらりと視線を後方に送る。イレガンが壁に背を預け、警戒するように周囲を見回していた。その目がリオスの目配せに気づき、小さく頷く。
イレガンはゆっくりとエメルのもとへ歩み寄った。
「行くぞ」
それだけ言って、イレガンはエメルの肩に手をかける。エメルは顔をあげたが、涙で滲んだ視界の中、ただただ首を横に振った。
「……お、俺……」
「行くんだ」
イレガンは構わず、軽々とエメルの身体を抱え上げた。エメルは泣き声を必死に押し殺そうとしたが、嗚咽は止まらない。涙を拭う手も、身体を支える脚も、もう動かなかった。
「……ごめん……ごめんよ……クラウス……ダグラス……」
うわ言のように繰り返すエメルの声を背に、イレガンはそのまま第三部隊の後方へと歩き出す。
背負われたエメルの嗚咽が、回廊の空気を震わせていた。
三部隊の編成が進む中、レオンは静かに目を伏せ、それからふと、顔を上げて前方に立つシグルド王子を見つめた。
威圧するでも、威厳を振りかざすでもない。だが、誰よりも先頭に立ち、仲間を導こうとする背中は、確かに何かを持っていた。自分には、ないものを。
(……王の器ってのは、こういう人間のことを言うのかもしれないな)
レオンはそう感じていた。自分が王に祭り上げられ、数々の責を背負わされたとき――心核の声に導かれるまま、それが「使命」だと信じて突き進んできた。けれど、その先にあったのは裏切り、ミリアの悲劇、そして無数の命の喪失。
――こんなはずじゃなかった。
だが、そんな後悔の念を、レオンは一度としてシグルド王子の目に見出したことがなかった。信じる道を見失わず、立場と責任を引き受けるその姿に、レオンは不思議と敵愾心を抱いていなかった。
(……たぶん、ネミナのことも、私の暗殺計画も、彼は知らなかった)
どこかでそう感じていた。
そのまま、レオンの視線はシグルドの傍ら――ヴァルドとマウリクスの方へと流れた。ちらりと目が合った。ふたりは、はっとして目をそらす。レオンの表情には、怒りも、蔑みもなかった。ただ、静かに全てを知っている者の目。
それが逆に、彼らに罪の意識を突きつける。
(恨みなんか抱いていない。……抱いていられるほど、俺たちは余裕のある立場じゃない)
生き残りをかけて、前に進むしかない。
レオンは隊の列に戻りながら、ふと薬袋に手をやった。そこには彼自身が配合した回復薬の小瓶が数本残っていた。
(ダグラス、クラウス……)
目を閉じると、死にゆく瞬間のふたりの顔が脳裏に浮かぶ。悔いを抱き、それでもなお誰かのために生きた、男たちの横顔。
この血の色も、嘆きも、すべてを背負って――彼はそっと、前を向いた。
「……人の命は、薬で癒せない。そんな事ばかりだな」
ぽつりと、誰にともなく呟いたその言葉に、ゲルハルトがちらりと目を向けたが、レオンはもう黙って剣の柄に手をかけていた。
「行こう。みんなのために」
王城礼拝堂への最後の突入を前に、三つの部隊が配置に就いていく。勝者が生者であるとは限らない。だが、敗者に語る言葉など、残されていないのも確かだった。