92(救済)
王城の西棟。かつては栄華の象徴であった回廊が、今や瘴気に満ち、血と臓腑の臭気が充満していた。
討伐軍が突入を開始する。
「突撃――!続けッ!」
ベルドの号令とともに、クラウス、ダグラスらを先頭に城内へとなだれ込んだ兵たちは、狭い石造りの廊下を進み、待ち構えていた第四世代のゼレファスに襲いかかられた。
「狭い空間ならこちらが有利なはずだ……!」
そう誰もが信じていた。しかし、その希望は一瞬で裏切られる。
膂力に優れたゼレファスは、兵士の盾を粉砕し、刃を受けても構わず振り回す尾で吹き飛ばした。壁に叩きつけられた兵士が一人、二人とその場で動かなくなる。
「くそっ、ここで押し返すぞ!」ダグラスが吠え、槍で第四世代の一体を突き上げる。弱点と思われる眼を狙っていたが、わずかに外れた。それでもその力強い一撃にゼレファスは体勢を崩し、別の兵が背後からとどめを刺した。
ダグラスは一瞬の隙に、別の個体へ駆け寄る。「下がってろ!」と味方を庇い、剣で尾の動きを封じ、脇腹へ深く刃を入れる。「一匹、殺ったぞ!」と叫び、周囲を見渡すと、既に三体目への対応が進みつつあった。
ベルドはその中央にいた。銀の剣を背に負い、短剣を手に聖句を静かに唱える。その声は確かに響き、空間を震わせた。ベルドが詠唱を終えると同時に、短剣がまっすぐ飛び、ゼレファスの胸部に突き刺さる。
「――“天名により、命を封じる”」
まるで意志を断ち切られたかのように、ゼレファスの動きが鈍り、兵たちの刃がその身を断ち切る。
だが、それは嵐の前の静けさだった。
奥の礼拝堂入口を砕くようにして現れたのは、第三世代――これまでの個体よりも一回り、いや、二回りも大きい。
「うわあああああっ!!」
悲鳴とともに数名の兵士が薙ぎ払われ、壁へ叩きつけられた。次の瞬間、咀嚼音とともに一人、また一人とその身を喰われていく。
「……化け物め」
ダグラスが呟いたその声は、震えていた。アルデマンとの戦いで感じた興奮とは違う。これは、死を目前にした者だけが抱く純然たる恐怖だった。
それでも、彼は逃げなかった。剣を構え、迫り来るゼレファスの攻撃をかわし、ベルドの前に立ちはだかる。
「お前に手は出させねぇ……!」
クラウスも駆けつけようとするが、第三世代の威圧感に圧され、動けない。全身が強張り、渇き、手が震える。目の前の異形を前に、彼の足は凍りついたように動かなくなった。
ゼレファスの尾がクラウスに向かって振り下ろされる。
「……ッ」
その一瞬、ダグラスが飛び込んだ。剣で尾を弾き、クラウスを庇うように体を張った。
「ダグラスッ!!」
響く叫びとともに、彼の身体がゼレファスの牙に喰われる。胸を、腹を、肉が千切れる音が重なる。
「グ……ボッ……」
喉の奥から、潰れたような音が漏れた。ダグラスの口元から真紅の血が溢れる。
――その瞬間、クラウスの何かが、音を立てて壊れた。
「あぁぁぁぁああああああ!!」
全身の力をその腕に込める。
振りかぶった剣は、痛み、悔恨、義憤を纏った刃となって――
ゼレファスの単眼へと、まっすぐに突き立てられた。
「――ッギ、アアアアアアッ!!」
甲高い悲鳴を上げ、異形の巨体がのけぞった。
血飛沫が弧を描き、クラウスの頬に熱い線を刻む。
恐怖の残滓は、もうどこにもなかった。
「滅せよ――ッ!!」
続いて放たれたベルドの剣が、祈りと共にゼレファスの心臓を貫いた。第三世代の巨体がゆっくりと崩れ落ちる。
その刹那、クラウスの体がよろめく。
「クラウス……!」ベルドが駆け寄った。彼の腹には尾の先端が深々と突き刺さっていた。だが、動きはなかった。ゼレファスはもう、分体能力を失っていたのだろう。
「ベルド……神は……赦してくれるだろうか……償うことができただろうか……」
クラウスはベルドを見つめた。その真剣な眼差しは、まるで祈るようだった。
「神は、お前の行いも、苦しみも、悔いもすべて見ておられる。赦されぬ者など、この世にはおらぬ。……神の御前に、汝の罪を赦さん」
ベルドは静かに祈りを捧げ、血まみれの手でクラウスの額を撫でた。
クラウスの瞳から光が消える。命の灯が消えたあとも、その瞳は何かを語っていた。ベルドは静かに、そしてその語りを受け止めるように、ゆっくりと瞼を伏せた。
瞳を静かに閉じたのは、神官としての赦し、そして同志としての歩む覚悟だった。
戦場は、一瞬だけ静寂に包まれた。