90(惜別)
早朝――空は濃い墨のような灰色に染まり、王都の尖塔が瘴気の中から朧に浮かんでいた。
瘴気は濃く、土を這うようにして王都を飲み込み、腐臭と血の匂いが混じった風が討伐隊の鼻を刺した。重たい雲が風を殺し、音が吸い込まれていくような不気味な静けさが、辺りに満ちていた。
「……この空気、まるで死を孕んでいるようだ」
グラッツが甲冑の隙間から染み出す汗をぬぐいながら、低くつぶやいた。
討伐隊は三手に分かれて城門を包囲していた。正面から王門へ進むのがベルドを中心とした本隊。クラウス、ダグラス、グラッツはその最前列にいた。左翼には槍兵部隊、右翼には騎馬による遊撃部隊が展開していた。
「王門前、異形確認!三体……いや、奥にまだいます!」
斥候の声がひびく。見れば、城門前にはゼレファスの第四世代が三体、うろつくように這い回っていた。瘴気の濃い中心地では、第五世代や六世代が群れを成していた。
「数を減らす、怯むな! 射手、用意!」
ベルドが手を上げると、神官兵の間から現れた弓兵たちが素早く構えた。
「撃て!」
空気を裂いた矢が放たれ、三体の第四世代が怯み、うち一体が眼を貫かれて倒れた。だが、残る二体が雄叫びのような咆哮を上げ、門の奥から這い出す異形の群れに呼応する。
「くるぞ、構えろ!」
クラウスが剣を抜き、前へ出る。洗練されてはいないが、無駄がなく隙もない動き。全神経がそのゼレファス一点に向けられていた。彼の隣では、ダグラスも剣を構えていた。瞳は死地に向けて開かれている。
そして――。
「ベルド神官長!門の奥から――!」
城門が、きぃ、と音を立てて開いた。黒く濁った瘴気と共に、五体のゼレファス。中でも一体は体高が倍近く、群れの指揮をとるような挙動を見せていた。
「上位個体……!」とベルドが呟く。
「任せておけ」一人の槍兵が吼えるように言い放ち、一斉に突撃を開始した。
地鳴りのような響きと共に、槍の穂先が火花を散らす。だがゼレファスの鱗は堅く、深くは通らない。
「胸部、そして眼だ!」グラッツが叫ぶ。
「囲んで叩け! 孤立させるな!」
混戦の中、神官たちが聖句を唱え始める。ベルドの詠唱はひときわ強く、「名」を呼ぶたびに、ゼレファスの皮膚が焼けるように裂けていった。
「効いている!ベルド様の聖句が奴らを引き裂いてる!」
兵士が歓声を上げるも束の間――門の上から飛び降りてきた異形が一人の兵を食らう。尾が腹部に突き刺さり、その体から新たな分体が生まれる。
「今、腹が動いた……!!」
それは第六世代。だが数が増えていく。
「連鎖を断て!一体残らず焼き払え!」
ベルドが叫び、神官たちの詠唱に合わせて、炎による浄化がゼレファスを炙った。高熱に焼かれた皮膚が裂け、悲鳴のような叫びがあがる。
「今だ!叩け!!」
クラウスが前へ出た。今、彼の剣は迷いなく振り下ろされた。ゼレファスの眼を貫き、深く沈み――倒れる。
「……っはぁ、よし……!」
ダグラスが苦笑し、汗をぬぐう。だが、まだ終わってはいない。
王門が、崩れた異形の死骸と焼け焦げた瘴気に包まれて沈黙する。
兵たちの呼吸は荒く、地に伏せた仲間の姿を目にし、誰もが安堵と絶望の入り混じる静寂に呑まれていた。空気には焦げた鱗と血の臭いが混じり、風は瘴気を引きずって王都の内部へと流れ込んでいる。
「……死体を確認しろ。腹に傷がある者は……」
ベルドが静かに言葉を投げる。
クラウスとダグラスは足元の瓦礫を跨ぎながら、仲間たちの死体を一体ずつ確認していく。
「こっち……は、大丈夫だな。痕跡はない」
「……くそっ……!」
歯を食いしばり、ダグラスが血塗れの兵士の顔に布をかけたときだった。
「……あれは……」
クラウスが目を見開いた。その視線の先、黒く煤けた煉瓦の壁の影に、仰向けに倒れている男がいた。皮鎧の裂け目からは斜めに切り裂かれた胸の傷口が覗き、黒い肌にべったりと血が乾いていた。
「……グラッツ……?」
駆け寄るクラウス。膝をつき、手をそっと胸にあてがう。心音は、もう感じられなかった。
「……傷は、腹じゃない……繁殖されてはいない……が……」
ダグラスが無言で傍に屈む。目を伏せ、クラウスの肩をそっと叩く。
「そう、か……やられたか……」
「……あの時、檄を飛ばしてたが……」
彼らの背後、近くで膝をついていた若い兵士が震えた声で呟いた。
「……俺を……俺を庇って……!」
顔を覆い、嗚咽する兵。頬をつたう涙が、血のしみた石畳に静かに落ちていく。
ダグラスは目を閉じ、小さく嘆息した。
「……あぁ、あいつは、そういう男だった。前ばかり見て、真っ直ぐで、仲間に厚かった。……いい男だったよ」
クラウスは祈るように手を組み、グラッツの亡骸に頭を垂れた。
「神よ、彼の魂に安らぎを。……この男は、勇敢で、誠実な兵士だった。俺のような男が言っていい言葉ではないかもしれないが、……それでも」
その場にいた者たちは、自然と黙祷を捧げた。たとえ王都が地獄と化していようとも、仲間の死はその場の空気を締めつけるに足るだけの重みを持っていた。
しかし――時間は待ってはくれない。
「気を抜くな。あいつらは、どこから来てもおかしくない……!」
ダグラスの低い声が緊張を引き戻す。
ベルドは、瘴気を透かすように王都の奥を見つめていた。彼の目には、他の者には見えない“澱”がはっきりと視えていた。
「……見える。あれが……本拠か」
王城の中心部、礼拝堂付近に、ひときわ濃く淀んだ気配がひとつ、脈動するように渦を巻いている。
それはこれまで相まみえたどのゼレファスよりも巨大で、濃密で、異質だった。
「……そして、そのすぐ近くに二つの……これもまた、大きい……」
ベルドは額の汗をぬぐう。声に出さずにはいられなかった。
「本体か……あるいはその“直下”に当たる個体か……」
「なにか見えたのか?」クラウスが問う。
「礼拝堂に、ひときわ大きな禍の塊がある。周囲の三つの通路にも、それぞれ大きな気配が……出入り口を、囲うように塞いでいる。おそらく奴らは、本体を守るべきであることを本能的に理解しているのだろう」
「まるで……玉座を守っているかのようだな……」
「そうかもしれないな」ダグラスがつぶやく。
ベルドはゆっくりと剣を抜き、柄の銀を光にかざした。
「ここから先は、“戦”ではなく“祓い”だ。退けば王都は完全に呑まれる。行くぞ。討伐を再開する」
兵たちの喉が鳴る。恐怖を嚥下する音だった。だが、それでも誰も退かなかった。
死がすぐそこにあると知りながら、それでも歩を進める――それが彼らの「決意」だった。
そして、瘴気の渦巻く礼拝堂へと続く道へ、討伐隊は再び足を踏み入れようとしていた。