89(慄然)
暁の空が薄く朱に染まる頃、薬草園の門が静かに開かれた。
草木の香りを残す静謐な地を後に、神官たちと兵士たちが列を成し、北東の王都へ向けて歩みを進める。先に見える王都の方角の空には、うっすらと灰色の瘴気が漂っていた。それはまるで、天が怒りと悲しみを同時に吐き出しているかのようだった。
ベルドは列の先頭に立ち、銀の剣を腰に携えていた。動きやすい戦闘用の簡素な法衣を身にまとい、表情に一切の迷いはなかった。
「前衛、歩調を乱すな。斥候、交代は三刻ごとだ。副官、後方の補給馬車の確認を」
短く、的確な指示が飛ぶ。その声には疲れも動揺もなく、むしろ兵たちはその冷静さに安心を覚えていた。
「これより、我らは王都奪還へと向かう」
後続部隊の騎士たちへ向けて振り返り、ベルドは一言だけ告げた。
「恐れるな。信じよ。神と、自らの手を」
神官たちは互いに目を見交わし、口々に「イシュメルの名にかけて」と短く祈った。ベルドは静かに頷き、再び進み出す。
道中、民の避難で荒れ果てた集落跡をいくつも通り過ぎた。どこも人気はなく、風に揺れる洗濯紐と崩れかけた屋根だけが過去の生活を物語っている。
「ここでも……人は住めなくなったのですね」
傍らで呟いたリシェラの声が風に溶ける。彼女は救護班の長として、負傷者の受け入れと薬草の管理を一手に引き受けていた。
そのとき、斥候の若い兵が息を切らして駆け寄ってきた。
「報告! 北の丘陵地帯にて、奇妙な爬虫型の死骸を確認しました! 火に焼かれた跡がありますが、何体かは燃え残り、肉塊のまま残っています!」
ベルドは立ち止まり、振り返る。
「腐敗臭と瘴気は?」
「かなり強いです。……生き物の死臭というより、もっと……こう、内側から腐ったような」
「接触するな。ただちに現地を避けて進路をとれ。街道筋を取らず、裏道を進む」
「はっ!」
斥候が戻っていくと、ベルドは思案する。
「焼却痕……。他の者もすでに動いているようだな……」
やがて王都の外縁が見えてきた。遠目からでも、街の輪郭は変わり果てていた。塔の一部が崩れ、外壁の下には黒い何かが這った跡のようなものがある。
「……かつての聖地が、魔の巣となったか」
誰ともなくつぶやいた言葉に、全員が黙した。
それでも、誰一人足を止めなかった。
ベルドは立ち止まり、王都を見据える。
「この先、我々の手で道を拓く。屍を越えるつもりで進め。討伐隊、前進――」
その声を合図に、部隊は再び動き出した。
血と鉄と祈りの先に、王国の未来があると信じて。