88(遺志)
薬草園に静寂が戻った頃、ベルドは中庭に立ち、深く息を吸い込んだ。夜の帳が降りる直前、空には硝子のような薄雲が広がり、風は北から吹いていた。どこか血の匂いを孕んだ風。だが、それに怯む様子はない。
「よくぞ集まってくれた。……感謝する」
整列した十余名の神官たちと、その周囲を固める王国軍の残存兵士たち。人数こそ多くはないが、志は高い。各地から呼び寄せた近隣の騎士家の使者や、薬草園に身を寄せていた地方領主の護衛たちも顔を揃えていた。
「敵は“数を増やす悪魔”だ。名を“ゼレファス”という。今、王城から王都にかけて、その眷属が瘴気とともに広がりつつある」
ベルドの言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
「単眼、鱗、鋭い歯に加え、尾をもって人間を苗床とする。討伐は困難を極めるが……弱点はある。頭部、そして心臓部。剣はそこを狙え。弓は眼を射抜け。尾が突き刺さる前に叩き潰せば、分体は防げる」
手にした銀の剣を抜き、ベルドはその刃に刻まれた“逆文字”を指でなぞった。
「この剣には、異形の名を刻んである。それを逆さにすることで、“否定の印”となる。神の力が宿るわけではない。これは、私自身の意志の証。悪を拒絶するという、人の業であり、誓いだ」
誰からともなく、拳を強く握る音が連なった。
「聖水の供給はまだ十分ではない。対抗手段として、火による処理が最も有効だ。捕らえた者、倒した異形は焼却せよ。瘴気の拡散を防ぐためにも必要になる。火事にならぬようにな」
そこへ、近隣の領主・フェルスタット辺境伯からの使者が到着した。若い騎士が息を切らせながら報告する。
「辺境伯より、兵五十、弓兵二十、野営用の薬と保存食が届きます!三日中には薬草園へ!」
「よくやった。伯爵殿には礼を。……これで小隊一つ分の即応戦力が整う」
ベルドはリシェラを伴って、討伐計画図を広げた。地図には王城を中心とした“侵食エリア”が赤く塗られ、点線がそれを包囲するように描かれている。
「三手に分かれる。北門から王城に接近する“突破班”。南門で難民誘導と治療、聖水で瘴気の対策を行う“救護班”。そして西から包囲線を狭める“討伐主力”。私がこの主力を率いる。リシェラ、君は救護班に回り、皆を守ってくれ」
「はい。……死なないでくださいね、ベルド様」
リシェラは短く頷き、口を引き結んだ。
「王都を失えば、王国は終わる。皆、我々が最後の砦だと肝に銘じておけ」
声は低く、しかし揺るぎなかった。
遠く、王都の空が赤黒く染まりはじめる。瘴気はゆるやかに山を越え、風に乗って広がっていた。人々が、祈りながら集い、静かに剣を研いでいた。
ベルドは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「……ヴァレンティウス様。あなたの意思は、ここに。あとは、私が終わらせます」