87(政討)
薬草園の石畳を踏みしめ、銀に縁どられた法衣をたなびかせながら、ベルドは静かに歩を進めた。背筋は真っすぐ伸び、指先まで緊張を宿すその佇まいは、かつてのヴァレンティウスを彷彿とさせた。
すでに到着していたシグルド王子が中庭で出迎える。王妃セリーヌも杖を手に立っていたが、やや疲れた表情を隠しきれない。
「ベルド殿……遠路をありがとうございました」
「殿下、お加減はいかがですか、セリーヌ様。……今こそ、我らが心をひとつにする時でございます」
静かに頭を下げるベルド。その目に光る決意は、会話の余地もなく真意を伝えていた。
すぐに、王城から逃れた兵のひとりが呼ばれ、礼拝堂で目にした“異形”の存在を証言した。混乱のなかで逃げ延びた彼は、恐怖に声を震わせながらも、その怪物の姿を必死に思い出して語る。
「鱗に覆われ、目はひとつ……口には、サメのような歯がびっしりと……尾で仲間を貫き、なにか、体の中に植え付けられたようでした……」
「単眼の異形……しかも、尾で繁殖か……」ベルドは眉間に深い皺を刻む。「“アバドネス”の眷属か……?」
その名を聞いて、兵たちがざわめいた。
「聞いたことがあります。聖典の一節に……大悪魔アバドネスの下僕ども。人に喰らいつき、心臓をくり抜いて地に種を植える異形の軍勢……」
ベルドは静かに頷いた。
「数を増やす異形という点で符合しますな。ただし、際限なく増えるわけではないでしょう。記述によれば、一定の世代数を経ると能力が衰え、やがて自壊を。……ですが、油断は禁物です。今が増殖の最中であるなら、早急に手を打たねばなりません」
その声は凛として、堂内に響いた。
「近隣の諸侯に声をかけ、討伐体を編成いたします。指揮は私が執ります。殿下はどうか、ここで王妃の身をお守りください」
しかし、シグルドは表情を引き締め、はっきりと口を開いた。
「いや、ベルド殿。私も王族のひとり。今この国を覆う災厄に対し、剣を抜かねばなりません。皆が血を流している中、私ひとりが後方にいては、父にも顔向けできません」
その言葉にベルドはしばし沈黙したのち、ゆっくりと頷いた。
「……ならば、心して参りましょう。もはや、王国の命運を賭ける時が来たのです」
***
兵たちが頷き、討伐のための整備が粛々と進められていく中、その裏手。薬草園の石塀に面した影の一角で、ひとつの錠が静かに切断された。
古びた小屋の裏――非常時の避難区画として使われていた簡素な牢だ。そこから、一人の男が這い出るように姿を現す。
――隻眼の盗賊、トリス。
レオンが投獄されていた時、隣の牢で飄々とした態度を崩さずにいた男である。
「へっ……騒がしいと思ったら、討伐だの王族だの……こりゃ、チャンスだな」
しゃがれた声を漏らしながら、トリスは腰に巻いた針金を握り直す。彼がかつて名うての鍵師だったことを、ここで知る者はいない。
「バケモノ相手に剣を振るうのは御免だが……混乱ってのは、金になる。世の常よなぁ」
すり足で影を抜け、薬草園の裏手の小道へと身を滑らせていく。夜露に濡れた草を踏みしめ、振り返ることなく、ただ笑みを浮かべながら。
その背中には、一切の忠義も、正義もなかった。
***
薬草園に集った討伐隊は、出立の準備に追われていた。物資の確認、武器の点検、怪我人の護送――そのすべてが緊張感の中、淡々と進められていた。そんな中、一人の兵が駆け足で本館の前庭へと駆け込む。
「報告! 牢に拘束されていた者たちが……王都奪還作戦への参加を直訴しています!」
衛兵の報告に、周囲がざわつく。すぐさま薬草園の広間に報せが入り、そこにいたシグルド王子、ヴァルド、マウリクスが揃って顔を上げた。
「何だと……?」
最初に声を上げたのはヴァルドだった。眉間に深く皺を寄せると、すぐに毒を吐いた。
「いまさら命乞いか? 牢の中では守られないから、討伐に紛れて逃げる気ではあるまいな」
マウリクスは冷笑を浮かべる。
「逃げ出す算段が付いた、ということかもしれませんね……信用するのは危険かと」
だが、その場の空気を切り裂くように、シグルドが右手を上げて遮った。
「聞こう。ここまでの惨状を前にしてなお、討伐に加わるというのだ。話くらいはさせてやるべきだ。……あやつらにも、思うところがあるのだろう」
すぐに兵士が彼らを連行してきた。クラウス、ダグラス、そしてかつてレオンの部下だったグラッツらが、膝をつき、地に額をこすりつける。
「殿下――」
クラウスが必死に言葉を紡いだ。
「……こうなってしまったのは、我々の責任が大きい。その贖罪を、この命で果たさせて欲しい。どうか、王都奪還に――加えていただきたい!」
声は震えていたが、誤魔化しのない誠意が滲んでいた。
「ばかばかしい」
ヴァルドが吐き捨てる。
「牢に戻せ。王都が地獄と化す中で、荷物になるような連中を抱えていられるか」
だが、シグルドは即座に命じる。
「構わん。足を引っ張るようなら、容赦はしない。それだけだ」
言い終えると、ベルド神官長を探して兵を走らせた。
「……謀反の恐れがございます」
マウリクスが低く囁く。
「よろしいのですか? あやつらを信じて」
シグルドはゆっくりと彼に向き直った。
「心配いらぬ。見ろ、あやつらの顔を。王都の惨状に、今にも押しつぶされそうではないか。……演技とは思えん。私の目が曇っていると?」
言葉を失ったマウリクスが黙る中、ベルド神官長が屋内から現れた。
「クラウスたちか……」
彼はその姿を一瞥し、しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開く。
「……レオン殿に着せられた冤罪。私はそれに加担した者の一人だ。啓示に希望を見たのだろう?悪魔の所業と知らずに……。贖罪を願う気持ちは、痛いほどわかる。――討伐隊への参加を認める。ただし、条件がある」
全員が固唾を呑んでベルドを見つめる。
「最前線だ。命を懸けて、共に王都を取り戻そう。……その意思を、行動で示せ」
クラウスは深く、深く頭を下げた。ダグラスもグラッツ達も、それに続いて地に額を擦りつける。
討伐隊に新たなる一団が加わった。贖罪を背負いし者たち。過ちの記憶と血塗られた歴史の続きを、彼ら自身の手で正そうと、剣を執る意志がそこにあった。