86(検屍)
腐臭を含んだ風が、サンデル村の廃墟を撫でていた。
かつて穏やかに人々が暮らしていたはずの村には、生の気配がなかった。畑は瘴気に焼かれ、黒く枯れた作物が地面にへたり込んでいる。井戸の傍にはぬめるような悪臭が立ちこめ、吹き溜まりの空気に混ざって、鼻腔を刺していた。
「……終わってんな」ザモルトが吐き捨てるように言った。
「村人の姿は……皆無か」ゲルハルトが広場に目を向けた。「足跡も古い。これは……全滅したと見ていいだろうな」
「ねぇ……ほんとに調査なんて必要?」エメルが声を震わせる。「やばいって、絶対やばいって、俺、肌で感じるもん」
「黙ってろ、落ち着かねぇ」バロムが呻くように返す。
「だが、ここを通らずして王都に戻る事はできない。迂回すれば、退路が断たれる可能性がある」リオスが静かに言った。「……それに、俺の故郷も、同じように滅んだ。逃げて終わりにはしたくない」
ザモルトが手を上げ、皆の動きを止める。
「……聞こえたか?」
遠くの茂みで、ぬるりとした気配が蠢いた。
「ッ、来るぞ!!」ゲルハルトの声が鋭く響いた。
廃屋の陰から現れたのは、全身を鱗で覆った奇怪な生物だった。爬虫類にも似ていたが、どこか人間のような構造を持つ。手は五指に分かれ、顔には茶色の毛髪がわずかに残り、ただ一点、中央にある単眼だけが生気を放っていた。
「……なんだあれは……!」レオンが息を呑む。
その異形は口を裂いて呻き声を上げた次の瞬間、異様な速さで跳ね上がり、イレガンへと迫った。
「素早い……が、軽い」イレガンが横へ跳び、すかさず刃を振るって斬り捨てる。
そこへ、別方向からもう一体が迫る。
「リオス!」ゲルハルトの声に、リオスがすでに矢をつがえていた。
「こちらも一撃で十分だ」
放たれた矢は風を裂き、異形の単眼を貫通する。小さな叫びを上げ、二体目も倒れた。
「……ちっせぇが、気持ち悪ィな……」ザモルトが警戒を緩めぬまま周囲を睨む。
「いや、来るぞ。今度は……でかいな」
音もなく、暗がりの中からさらに四体。先ほどより一回り大きな二体を先頭に、残りはさきほどと同じ型の小柄な個体だった。
「親子か?」ゲルハルトが苦い顔をする。「いや……どっちも異様すぎる」
「あそこの段差と岩陰――ちょうど地面が崩れてる。うまく誘い込めればあれを落とし穴にできる……!」
ザモルトは枯れ枝を踏み折り、岩の下に積もった砂利を蹴り出す。崩れやすい層が露出し、踏み込めば足場ごと滑り落ちる状態になった。
リオスが頷き、石を投げて注意を引くと、誘い込まれた大型の個体が踏み込んだ瞬間、地面が崩れ、獣はずるりと谷底へ転がり落ちた。崩落地帯を作り上げた。リオスが頷き、敵の注意を引くために石を投げると、誘導された一体の大型個体が足場をなくし、体制を崩した。
「いまだ!」ゲルハルトが跳ね上がり、脇腹から刃を深く突き立てる。敵が呻くように暴れた直後、息絶えた。
残ったもう一体も、リオスの矢が再び単眼を射抜き、どさりと音を立てて倒れた。
二体の小型個体は、イレガンが踏み込んで剣で胴体を一刀両断。ゲルハルトはそれを援護し、背後から跳ねかかってきた個体を蹴り飛ばして壁に叩きつけると、剣を突き立ててとどめを刺す。
すべてが終わった後、辺りにただ風の音が戻ってきた。
レオンがゆっくりと口を開く。「……これが、村を滅ぼした元凶か」
「数が増えれば、あっという間だろうな。村人は……まず間違いなく全滅してる」ザモルトがきっぱりと言い切った。
戦いの熱が引いたあと、サンデル村の空気はどこか沈んでいた。腐臭と瘴気に満ちた村の空気は濃く重く、誰もが言葉を飲んでいた。
リオスは一体のゼレファスの死体に近づき、無言のまま膝をつく。かつて属していた辺境の警備団で、無数の死体を見てきた彼の目は、異形に対しても動じることはなかった。
「……少し、見させてもらおう」
そう呟き、鱗の隙間に指を滑らせる。皮膚の質感が人のものと混ざり合っているのがわかった。鱗は表面だけでなく、深部の組織にも一部入り込んでおり、構造は明らかに異常だった。
「この個体……たしか、先ほどの中では最も大きかった方だ。体長は約百五十センチ、体幹は太い……内臓の位置は人間とほぼ同様……心臓はこのあたりだろう」
短剣で胸部を裂き、中心部を探る。黒ずんだ内臓とともに、鱗の裏に守られていた心臓が露出する。
「心臓部は……やはりここが急所のようだ。先ほど私の矢が命中した個体も、眼球か心臓への攻撃で即死していた。つまり、比較的脆弱な急所はある」
そのまま尾に手を伸ばす。刃のように鋭い尾の付け根には、節状の器官があった。
「……生殖器か、それに類する器官が見える。節ごとに棘のような構造、返しがあるな。これは挿し込むか突き刺すためのものか……」
「おい、何を見てるんだよ、あれの尻尾なんて見たくもないぜ……」ザモルトが顔をしかめる。
「この個体は大型のほう。先ほど私とイレガンが倒した小型個体……こちらにはそれがない」
リオスが視線を動かすと、やや離れた場所に倒れていた小柄なゼレファスの死体を指さした。
「……同じ種のようでいて、明確に差がある。親子関係、あるいは分化した世代的な違いか。生殖能力を持つのは、大きい個体のみかもしれない」
レオンがその様子を後ろから見つめながら、そっと声をかける。
「つまり……あの尾で……繁殖を?」
「可能性は高い」リオスが頷いた。「人体に突き刺し、子を産む。さっきの兵士の死体にあった傷跡……思い出してくれ。腹部に深く突き刺したような痕だった。あれは捕食だけではない。……繁殖の跡だ」
空気が一気に凍り付くような沈黙が流れた。
「じゃあ……このまま死体を放置するのは……」とエメルがおそるおそる口を開く。
「危険だな」リオスが即答する。「死体を媒介に数を増やす可能性がある。少なくとも、腐敗過程で何かを残すかもしれない」
ゲルハルトが腕を組んで考え込んだ。「となると……焼くか」
「焼却が最も安全だ」リオスが頷いた。「炎で完全に組織を破壊するしかない。毒性のある瘴気を含んでいる可能性もあるが、それでも生きている個体が増えるよりはいい」
ザモルトが肩をすくめて言う。
「なら、手早くやろうぜ。長居すれば瘴気が濃くなる。ここで新たに“産まれる”なんて、冗談じゃねぇ」
イレガンは黙って火口を探しに動いた。火打石を手にしたバロムがそっと差し出す。
「……俺もな。こういうのは……勘弁だ」
火が灯り、ゼレファスの死体へと投げ込まれた油布が燃え始める。焦げた鱗の匂い、皮膚がはじける音が村に響く。
リオスは、焔の中で歪むゼレファスの姿を見つめていた。
「……敵の名は、わからない。しかし、これが広がれば、国は滅びる」
彼の瞳には、燃え尽きるまで観察をやめない、冷静な分析者の光が宿っていた。
ゲルハルトは井戸の水を確認し、顔をしかめた。「水はもうダメだな。底の方が黒く染まっている」
畑も腐り果て、宿のあった場所は瓦礫の山と化していた。かつて過ごした村の面影は、どこにも残っていない。
「……王都も、こうなっていないといいが」レオンが呟いた。
「何が起きているのか、まったくわからない」ゲルハルトが低く唸る。「獣でもない……もっと根本的に何かが狂っている気がする」
「ここまで来たら……」イレガンが静かに剣を納めた。「行くしかないだろ」
「行こう」レオンが力を込めて言った。「無理はするな。でも、止まるわけにはいかない」
誰もが、黙って頷いた。
王都を目指して、彼らは再び歩き出した。