07(希望)
まだ夜明け前の商業区裏手、露に濡れる路地を抜けた先、廃れた井戸のそばにぽつんと立つ古びた納屋。屋根には苔が生え、壁面に「Anathema(呪われた者)」と炭で書かれかけていた。レオンは再びこの場所を訪れていた。
古びた扉が軋みを上げて開き、少女とともに、静かに踏み入った。
「起こさないで。母は、夜は眼の痛みで、なかなか眠れないの」
ミリアが指先で小さく合図すると、レオンはうなずき、肩に提げた革袋をそっと床に置いた。そこには、ようやく手に入れたラウルの心核が示した――“フィレアの白花”と、その後啓示があった “トリュリの樹液”が包まれていた。
濡れた草の香りが部屋に広がる。少女が思わず顔を上げた。
「この匂い……私、小さい頃、傷に貼られていたの。まさか、これが……」
「そう。湿布としての用途や虫刺されに効く薬草だ。だけど、昔の東方軍医が――内服と点眼を組み合わせて使っていた記録はある」
レオンは袋の奥から小瓶を取り出した。淡い飴色をした粘度のある液体。それは“トリュリの樹液”。この混合によって、フィレアの伝達を一時的に補強する。
「ただ、効くかはわからない。石が示したのは、あくまで方法だ」
彼の言葉に、ミリアは迷うように母の方を見やった。婦人の目は半ば閉じられ、乾ききったまぶたが時折ぴくりと動いていた。
レオンは薪をくべ、鍋に水を注ぎ、白花を浮かべて静かに煎じ始めた。
草の香が煮立ち、薬茶が琥珀色に染まったころ、母がかすかにうめいた。
「……夜か?……ミリア……起きてるのかい?」
「お母さん……今日ね、すごい人に会ったの。それとね、神様のお告げがあったの。お母さんの目の治療方法を教えてくれたわ」
ミリアの震える声に、母はゆっくり顔を上げた。
「神様が?」
「そうよ!今回は、本当!!」
レオンはそっと薬茶を差し出し、湯気の向こうから母の瞳を見つめた。その瞳は白く濁り、視点は定まらなかった。
だが、信仰を道具にされてきた王城の光とは違う。
この夜明け前の暗がりで、生き延びるために祈った声が、石を通じて返ってきたなら。
それは、奇跡ではなく“応え”だと、彼は信じた。
「まず、飲んでください。焦らず、ゆっくり」
母は、娘に支えられながら、薬茶をすすった。苦味にわずかに顔をしかめる。
「そして、これを……両眼に一滴ずつ」
フィレアとトリュリの混合点眼液。ほんの一滴、老女の瞳にたらすと、かすかな痺れとともに、目元の皮膚がわずかに引き締まる。
「効果が出るまでしばらくかかるでしょうから、少し待っていましょう」
***
しばらくして、婦人が息をのんだ。
「……あ……光……あかりが……」
かすかに開いたその目に、蝋燭の火のゆらめきが、かすかに、ゆらゆらと映っていた。
ミリアが手を取り、笑う。
「見えた? 本当に?」
「……はっきり、じゃない。でも……光が……動いてるのが……見える」
レオンとミリアはその瞬間、薄暗かった部屋がほんの少し、淡い光で満たされた気がした。