84(焦慮)
北西の山中、澄んだ空気が張り詰めたような静寂の中で、ヴァレンティウスの旧宅に篭るひとりの男が、深く呼吸を整えていた。
ベルド――かつて王国の神官長として多くの信徒を導いた男は、今や己の未熟さを恥じ、再び信仰と修行の原点に立ち返っていた。
山の風に薬草と湿った土の匂いが混じる中、彼の額に汗はなく、まなざしはただ、遥か南方、王都の方角を鋭く見据えていた。
「……ついに顕現したか」
低く絞るような声。だが、その声には迷いはなかった。
瘴気にまみれた大気とは異なる、さらに深い負の澱のような気配が、風の層を這うようにベルドの感覚に触れていた。
銀の法剣、聖槌、投擲用の短剣――いずれにもゼレファスの名が、神に背く悪名として逆向きに刻まれている。それらを腰と背に携え、ベルドは静かに仲間たちへ顔を向けた。
「準備は整った。――ゼレファスを、始末しに行く。皆、ついてきてくれるか?」
神官たちは、言葉を返すよりも早く、まっすぐに頷いた。
「当然です、ベルド様」
そのとき、山道を駆け上がるようにして数人の兵士が姿を現した。シグルド王子の私兵である。
「ベルド様、ご報告です!」
彼らが伝えたのは、礼拝堂での惨劇、悪魔の襲撃、王都の崩壊的状況――。
ベルドは目を伏せ、ひとつ息を整えると、小さく頷いた。
「分かった。……殿下のもとへ案内してくれ」
***
王国東南、国境近く。
かつてレオンたちが東方帝国へ向かう際に一度立ち寄った中継地――サンデル村は、かつての面影をすっかり失っていた。
遠目にも分かる。黒ずんだ煙の尾が風に乗って伸び、荒れ果てた屋根や破壊された柵が、どこか「喰われた」ような印象を残していた。
村を包む空気は重く湿っていた。土の匂いとともに、焦げた肉や獣臭、そして何より血のにおいが漂っていた。
「おい! やばい気配がするぞ」
最も先に異変に気付いたのはザモルトだった。即座に周囲に警戒を促す。
「こりゃぁ……全員殺られてんな。絶対に一人になるなよ!」
歩を止め、周囲を見渡したリオスが、静かに口を開いた。
「……妙な風です。腐臭に混じって、焦げた石灰と……血の匂い。それに、どこかで嗅いだことのある、死んだ動物の腐乱臭……」
言葉は冷静だが、その表情は険しい。以前、彼がいた辺境の村でも似た匂いが立ち込めた事があった。村人が皆殺しにされていた――あの忌まわしき日。
「調査は俺が指揮する」
ゲルハルトが前に出て、即座に陣形を組むよう指示を飛ばす。
「イレガン、ザモルトは先頭。リオスと俺が後衛で追う。レオン様とバロムは荷の側。エメルは、隠れていろ。物音一つ立てるな」
「ひ、引き返そうよ! ここ、もう人の住む場所じゃない!」
エメルが半泣きになりながら情けなく叫ぶ。傍らのバロムが無言で肩を叩き、静かにうなずく。エメルはしゅんとしながら、後ろの荷の影に身を隠した。
「クラウスやミリアたちは……大丈夫なのか?」
レオンがぽつりと呟く。呪いか、瘴気か、あるいはそれすらも超えた何かが、王国を蝕んでいるのか。王都は、無事なのか? 皆はうまく避難できたのか? 頭に渦巻く不安の数々が、胸を締めつける。
「よそ見すんな。まずは自分の命を心配しとけ」
ザモルトの軽口に、レオンがわずかに苦笑を浮かべる。
風が変わった。土埃に紛れて、焼け焦げた何かが鼻を突いた。
――サンデル村は、もう目と鼻の先に迫っていた。