82(魔境)
礼拝堂での凄惨な事件の報は、数刻を待たずして王城内、急造した即席の作戦室へと届いた。
重苦しい沈黙が部屋を満たすなか、シグルド王子はヴァルド、マウリクスの両名と顔を見合わせていた。
「……なんということだ。にわかには信じられん」
ヴァルドが眉間に深い皺を寄せて呻くように言った。
マウリクスは静かに口を開く。「ベルド様の師でいらっしゃるヴァレンティウス様も、心核に宿っていたとされる悪魔を祓う際に命を落とされたそうです。ベルド様はそれから多くを語らず、修行に明け暮れているそうで……神官の語る荒唐無稽な話だと思っていましたが、今回の件でそれが実際に起きたと考えねばなりません」
「つまり……悪魔は実在すると」
シグルドの声は低く、重く沈んでいた。
「ベルド様への報告を急がねばなりません。シグルド様、どうされますか?」
短く息を吐いた王子は、立ち上がる。「……うむ。信じられん事態だが、一旦部隊を王城から引き上げよう。市街地へ瘴気が広がり、いつ姿を現すかわからん。国民の避難誘導も並行して行う必要がある。牢に入れたクラウスとダグラスも、このままでは異形の餌になるだけ。錠を掛けたまま出すしかあるまい」
「では、どこへ?」ヴァルドが尋ねる。
「母が療養している薬草園まで。一時的にそこを拠点とし、部隊を整えたのち、神官長――ベルドの判断を仰ごう」
頷いたマウリクスが指揮官に命令を飛ばす。「全軍に伝達! 王城を放棄、避難計画を即時実行する!」
***
城壁沿いの牢前。
「よかったな! 罪人皆、解放だってよ!」
ヒゲ面の囚人が鉄格子の奥から皮肉を含んだ声で叫んだ。
それに対し、看守が眉を吊り上げて怒鳴る。「解放ではない! 牢にまで異形の危険が迫っているのだ。シグルド様の慈悲に感謝するのだな!」
その背後、やや離れた牢内に、無言で座るダグラスとクラウスの姿があった。互いに目を合わせぬまま、ただ耳を澄ませていた。
***
一方その頃、レオン一行は王国との国境近く、緩やかな丘陵の麓に足を止めていた。空は雲ひとつなく晴れているはずだったが、微かに潮の腐ったような悪臭を伴う風が吹き抜けていた。
レオンは、王都の方角を遠くに見やった。
空が――黒ずんでいるように見えた。
「嫌な予感がする」
***
煙とも霧ともつかぬ、淀んだ瘴気が王都を中心に広がっていた。まるで空そのものが死に染まっているように、薄黒い筋が雲間を流れ、やがて地上へと落ちていく。かつて整然とした街並みに、狂気と混乱の影が差し込んでいた。
耳を澄ませば、遠くで鐘の音が聞こえる。避難の合図だろう。それと共に叫び声、泣き声、祈りの声が断続的に続いていた。
街では、悪魔の出現と瘴気の拡散により、人々が次々と倒れていた。ある者は目を赤く染めて錯乱し、ある者は隣人を手にかけていた。信者たちはなお「これは神の試練だ」と唱え、街角で祈りを捧げる者もいたが、やがて彼らにも影が忍び寄る。
人々が去った後の街路には、誰の者ともわからぬ遺体が散乱し、魔を祓うための香が焚かれていた。だがその香の煙も、瘴気には効果があるように見えなかった――。
***
王都セントラグラの東側で暮らしていた老女は、干し果実の詰まった袋を抱えて空を見上げた。澄んだはずの大空は、黒灰色に濁っていた。遠く、王城の塔の先がもはや霞んで見えない。
風は西から吹きつけ、焦げた獣脂のような匂いを運んでくる。むせ返るような臭気が喉を焼いた。
「……子供を、子供を先に逃がしておくれ……!」
誰かが叫び、誰かが泣いた。広場に集まった群衆は、祈りと恐怖の狭間で揺れていた。天幕を張った施療所からは、嗚咽と呻き声が漏れ出していた。目を赤黒く染め、言葉も交わせぬまま口から泡を吹いて倒れる者。全身を痙攣させながら、何かにおびえるように四肢を突っ張る子供。
瘴気が、確実に人々を蝕んでいた。
***
兵舎、南塔。
城の守護兵たちの間にも混乱は広がっていた。
「――扉を閉じろッ! 奴らを中へ入れるな!」
指揮官が叫んだとき、すでに複数のゼレファス分体が侵入していた。火矢が放たれ、剣が振るわれ、鉄槍が貫かれる。だが、刃を弾き返し、身をひるがえした獣たちは、その勢いのまま兵を薙ぎ払う。
「あ、脚を……喰われたッ!!ぅぐぁあぁぁぁぁ!!」
若い兵の断末魔とともに、城壁に染みができた。
その場にいた隊長は、片腕を失いながらも果敢に応戦したが、突き上げるように飛び出した分体の尾に突かれ、城壁から落下して絶命した。
彼の最期を見た兵たちが絶叫し、戦意を喪失するのに、そう時間はかからなかった。
***
王都の街路。
商人も貴族も、貧民も平民も、等しく狂気に包まれた空の下を逃げていた。
馬車が転倒し、荷を失い、泣き叫ぶ母子。逃げ延びた神官が道端に跪き、目を閉じて震えながら祈る。周囲を浄化しようとするが、瘴気に勝る力はなかった。
風がまた吹く。
その風は、肌を刺すようなざらつきと熱気を帯び、呼吸を奪い、目を焼いた。
市民のひとりが天を見上げて呟いた。
「……街が、壊れていく……」