79(顕魔)
ミリアはベッドで横になり、大きく膨れた腹部に手を添え、静かに呼吸を整えている――ように見えた。だが、その瞳は焦点を結ばず、どこか虚ろで、生気が薄れているようでもあった。
「……また、動いたわ」
微かに呟いたその声に、誰も気付かなかった。ただ一人、傍に付き添っていた母イレナを除いて。
ミリアの腹部が、不自然なほど激しく波打ち始めた。胎動と呼ぶには重すぎ、明らかに“内側から蠢く何か”が存在していた。それに呼応するかのように、腹部の皮膚に浮き出た静脈が、黒く脈打ち、まるで生き物のようにのたうち回る。
「ミリア……!? ミリア、大丈夫?しっかりして……!」
イレナがその手を握る。だが、ミリアの手は異様なほどの力で彼女の手を締めつけ、骨が軋み始める。
「ッ……うぐっ……!」
ミリアの額から滝のような汗が流れ、顔はみるみるうちに蒼白となっていった。だが、ミリアは笑っていた。狂信の中に沈みきったその精神は、あらゆる苦痛を“神の意志”として受け入れていたのだ。
――しかし、身体は限界を超えていた。
みぞおちの辺りが、内側から焼けるような痛みに包まれた後、ミリアの体は痙攣を起こし始めた。口角からは泡沫上の血が流れ、彼女の眼球は上転し、意識を手放す。
「ミリア!ミリア、お願い、しっかりして!」
イレナの叫びに応じるように、ミリアの身体が奇妙な動きを見せる。腹部が異様な角度に隆起し、皮膚の色が灰紫色に変化する。やがて、ミリアの身体はまるで壊れた人形のように揺れ始めた。
――それはもはや、命ある者の動きではなかった。
「ぁあ……なんてこと……」
イレナは震えながら後ずさる。恐怖と悲しみで、涙が頬を伝う。娘の命が……もうこの世にはないことを、直感していた。そのとき、扉が開かれ、複数の信者が駆け寄ってくる。何事かと騒ぎ始める彼らの眼前で、それは起こった。
ミリアの首元が内側から、裂けた。ぶしゅりと血飛沫が上がり、首の皮膚の裂け目から血液を纏い、青い鱗を持つ何かが顔を覗かせる。
「な……に、あれ……?」
その“顔”には、丸く大きな単眼が一つ、ぎょろりと光っていた。人間のそれではない。だが、毛髪があり、鱗と皮膚が融合したおぞましい質感を持っていた。
「こ、これが……神……?」
信者の一人が呟いた直後、その者の喉に伸びた何かが突き刺さる。頸動脈から出血し、悲鳴すら出せず、信者が崩れ落ちる。
「なっ、何が……!?」
その場にいた兵士も、剣を構えることすら忘れ、本能的な恐怖に膝をついていた。あまりの異様さに、誰一人動けなかった。
ゼレファスは、血まみれの産道から這い出るように、ミリアの骸を引き裂きながら、ゆっくりとその全貌を現す――それは人の理から外れた、破壊と混沌の象徴だった。
――神ではない。信仰が呼び出した“神性の反転”。
それこそが、ミリアが命と信仰を賭して招いた、忌むべき存在・ゼレファス顕現の瞬間であった。