78(落暉)
王都に暮れる夕日が差し込む頃、城内の空気は異様なほどに静まり返っていた。まるで、何かが始まる前の、抑え込まれた心臓の鼓動のように。
その静けさを切り裂くように、内門の奥で金属が擦れる音と共に、叫び声が響いた。
「ヴァルド卿の軍勢が西翼から突入!近衛が突破されました!」
兵士の怒声が飛び交う中、城内の一角――宰相の私室にて、クラウスは額を押さえて沈黙していた。机の上には山積みの書簡、各地から届いた民の嘆願と恐怖の声。しかし、彼の目が見ているのはそれではなかった。
「……やはり動いたか、ヴァルド、それにマウリクス……」
部屋の隅には、剣を手に腰を壁に預けるようにして立つダグラス。その顔には焦燥の色が浮かんでいる。
「クラウス様、包囲は時間の問題です。ここに留まるのは危険です。逃れる道は残されております、すぐに……!」
クラウスは首を振った。重く、諦めたように。
「いや……逃げれば、私の名は恐怖政治を行った者として歴史に並ぶだろう。レオンやミリアの傀儡、あるいは共犯として。いずれにせよ……ここで終わるべき時が来たのだろう」
「……ですが」
言いかけたダグラスを、クラウスは静かに制した。彼はふと窓の外を見やり、囁くように言った。
「皮肉なものだ。あのミリアが、"神の子"などと言い出し……旧教徒を皆殺しにし、ついには腹に子を宿している。啓示に栄光の未来を見た俺の末路が、この有様とはな」
突如、扉が激しく叩かれ、騎士の声が響いた。
「クラウス殿、開門を!我らはシグルド様の命により、貴殿を拘束する!」
ダグラスが剣を構え、扉へと詰め寄る。その背を見ながら、クラウスはつぶやいた。
「シグルド……静かに身を潜め、牙を磨いていたか。見事な動きだ。この場で死ぬ気か?ダグラス」
「あなたを一人では死なせない。それだけです」
その瞬間、重厚な扉が内側から破壊され、激しい衝撃音と共に木片が宙を舞った。剣を手にした兵たちが怒号を上げて部屋へとなだれ込む。
ダグラスは瞬時に剣を構え、迫る兵たちの攻撃をいなしていく。滑らかな足さばきで一人、また一人の斬撃をかわし、返す刃で膝を落とさせた。
「退けっ! この者を通すな!」
兵の怒声を背に、さらに二人が斬りかかる。しかしその刹那、別の声が響いた。
「やめよ!剣を納めるのだ」
部屋の奥、騎士たちの間を割るようにして現れたのは、若き男――シグルド・アズヴァルド元王子。背後には、厳格な視線を湛えた財務卿ヴァルド・レヒトンと、落ち着いた口調で毒を含む侯爵マウリクス・バルハイムが続く。
シグルドは一歩、ダグラスの前へ進み、落ち着いた声音で告げた。
「そなたが――クラウスと、ダグラスだな。……抵抗はやめろ。おとなしくしていれば、命までは取らぬ」
ダグラスは剣を握りしめたまま、視線をシグルドに向けた。しかし次の瞬間、振り返ったクラウスが小さく首を振る。その顔には、諦念と静かな覚悟があった。ゆっくりとダグラスは剣を下ろした。兵たちが近づき、ふたりの武器を取り上げ、拘束していく。
その光景を、ヴァルドはじっと見つめていた。普段は穏やかで冷静な男。その彼が、まるで虫けらでも見るかのような冷たい目をクラウスに向けていた。
クラウスがその視線に気づくと、ヴァルドはひとつ、息を吐いた。
「……ここまで堕ちるとはな。殺す価値もない」
ただそれだけを呟くと、彼は再び表情を消した。
代わって口を開いたのは、マウリクスだった。爬虫類のような笑みを浮かべ、軽やかな口調で言う。
「宰相殿が縄目にかかるとは――立場とはかくも移ろいやすい」
クラウスは視線を逸らさずにいたが、何も言わなかった。その頬に浮かぶのは、怒りではなく、苦味と後悔の入り混じった沈黙だった。
ダグラスもまた、すでに諦めの色を滲ませたまま、静かに佇んでいる。沈黙を破ったのは、外から駆け込んできた騎士の声だった。息も絶え絶えに叫ぶ。
「シグルド様!急報です――ミリアの、ミリアの出産が……始まりそうです!」
一瞬、その場の空気が凍った。
「何だと……?」
シグルドが、目を細めて問う。
「ミリアが……子を産むというのか。あの……神の子だという……身籠ったばかりではないのか?」
騎士は頷きながら言った。
「はい。その通りなのですが……信者たちが必死にミリアを囲んで守っています。捕縛しようとする我らに、凄まじい抵抗を……」
ダグラスが低くつぶやいた。
「……出産が始まるのか。だがあれは……」
「……いずれにせよ、クラウスとダグラスを一旦、牢に入れねばならん」
シグルドの声は低く抑えられていたが、その響きには明確な決意があった。周囲の兵らが背筋を正す。
「責は追って問う。だが今は混乱の火種を隔離せねばならぬ」
ダグラスは口を開きかけたが、すぐにクラウスに制されるように押し黙る。シグルドは続けた。
「ふたりを連行したのち、残った兵全員で当たろう」
視線の先には、王城の中心部から立ち上る薄黒い瘴気の帯が見えた。それは風に流れながらもなお、渦巻いているようだった。
「各隊、武装を整えろ。……これは、ただ事ではない」
シグルドの横顔は厳しく、しかし怯えではなく冷静な怒りと警戒に満ちていた。
***
礼拝堂の奥――豪奢な天蓋付きの寝台。その上に、白い衣をまとったミリアが横たわり、異様に膨らんだ腹を撫でていた。その手つきはまるで、子をあやす母のように優しく――だが、彼女の眼差しは凍てついた水のように澄んで、何も映してはいなかった。
「……そう。出たいのね」
彼女は微笑む。その唇からこぼれた声は、どこか人ならざる響きを孕んでいた。
「もう、すぐ……」
その瞬間、腹が大きく脈打った。まるで中から、何かが"扉"を叩いているかのように。
夜が迫る城に、悪魔の呻きが響きはじめていた――。