76(相逢)
静かな朝靄に包まれたハーラの森の奥――その中にひっそりと佇む一軒家があった。木組みの屋根には苔が茂り、縁には朝露を湛えたハーブが揺れている。森の中にあるとは思えぬほど手入れの行き届いた庭に、香草や小さな果樹、薬草が整然と並び、その奥からは鶏の鳴き声が微かに聞こえた。
「……ここか。静かでいい場所だな」ゲルハルトが呟く。
玄関の扉をノックすると、中から出てきたのは年配の女性だった。白髪を後ろでまとめ、薄緑の上衣を身にまとったその姿は、温かみと穏やかさに満ちている。
「ようこそ。レオン様ですね。私はセシリア・マルキエ。この家の主です」
「ご挨拶が遅れました。王国より来たレオンと申します。突然の訪問をお許しください」
レオンが深く頭を下げると、一行も次々に名乗り、挨拶を述べた。その間に、家の中では猫が一匹、床をのそのそと歩き回っていた。濡れ羽色の艶やかな毛並みを持ち、どこか品のある表情の猫が、リオスの足元に擦り寄っていく。
「へぇ、懐かれるんだな」リオスが小さく微笑むと、そっと指先で猫の顎を撫でた。
それを見ていたイレガンが手を伸ばすが――猫は瞬時に彼の指先から逃れ、柱の陰へと走り去った。
「ダメか……」イレガンが苦笑交じりに呟く。
その頃、エメルは家の中の棚や書物に夢中になっていた。「この鉢植え……見たことのない! うわ、これも珍しい……!」
「こら、エメル。はしゃぎすぎだ」バロムが低く一喝すると、エメルは「あ、はいっ」と言って飛び上がりそうになった。
それを見ていたカレリアは、思わず口元を押さえてくすくすと笑い、セシリアの前に立って小さく一礼する。「とても素敵なお宅ですね。お手入れ、大変では?」
セシリアは柔らかく微笑み、「ふふ、お陰さまでね。ところで……私は少し森を見てくるわ。どうぞ、ゆっくりしていって」と静かに言い残し、戸口を閉めて出ていった。
居間に案内されたレオンと一行。その奥の部屋から、足音が聞こえた。戸口に立っていたのは、かつての恋人――ネミナだった。
「……ネミナ」
「……レオン」
再会の言葉は、たったそれだけだった。だが、交わされた視線の中には、あふれる想いが宿っていた。ネミナがゆっくりと近づき、レオンもまた数歩前へ。
「私は……君が幽閉されたとき、正気ではなかった。処刑場へ向かえなかったのは、心神を失っていたからなんだ。だが……それだけじゃない。あの“ラウルの心核”という予言石の力が、君の記憶に干渉していた可能性がある」
レオンがそう言うと、ネミナはゆっくり首を振った。
「処刑場に立たされたときのこと。……私はね、あなたには来てほしくなかった。だから……本当に良かった。あのときあなたが現れていたら、間違いなく殺されていたわ」
目を伏せたネミナが、声を震わせる。
「それから、いろいろあって……内戦の混乱に紛れて、ようやく逃げ出せたの。私……この子だけは、守りたかった……怖くて、不安で……でも、セシリアさんが、助けてくれた」
その言葉に、レオンはそっと彼女の手を握った。
「すまなかった……こんなにも辛い想いをさせて。もう二度と……君にこんな思いはさせない」
ネミナの目に再び涙があふれ、頷きながら彼の手を握り返す。
「……レオン。あなたの子よ。生きて、私の中で生きてる」
レオンの表情が一瞬で変わる。「……触れても、いいか?」
ネミナは微笑みながら頷く。レオンは恐る恐る、彼女の膨らんだお腹に手を添えた。
そこに、確かに命の温もりがあった。
しばらくの静寂のあと、ゲルハルトが現実を告げる。
「……レオン様。これからどうされますか? 王国の情勢は不安定です。ネミナ様のご懐妊もあり、すぐに動くのは……」
レオンは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「ここで、しばらく過ごしてもらおう。私は戻る。だが、彼女を一人にはできない。……カレリア、彼女の護衛を頼めるか?」
カレリアはゲルハルトの方を見た。彼が無言で頷くと、安心したように笑って答えた。
「もちろんよ。ネミナさん、まずは仲良くなりましょうね!」
「……ありがとう、カレリアさん」
***
出発前レオンはセシリアに礼を述べ、小さな袋を差し出した。「……ささやかですが、滞在費としてお受け取りください。ご迷惑をおかけします」
セシリアは穏やかな笑みを浮かべ、深く頭を下げた。「この家が、少しでも皆さんの助けになるなら」
こうして、レオンはネミナと新たな命をセシリアのもとに託し、再び王国へ戻る決意を固めた。去り際、レオンはネミナの手をもう一度握りしめ、約束の言葉を残す。
「必ず……戻る。君のもとへ」