71(安寧)
東方帝国と王国との境界。乾いた風が草原を吹き抜けていた。巡回中の帝国兵たちが、灌木の陰に人影を見つけたのは、陽が地平線に傾き始めた頃だった。
「……あれは……誰だ?」
倒れているのは、旅装束に身を包んだ女性だった。顔色は悪く、何日も眠れぬまま歩き続けたような疲労が全身ににじんでいる。声をかけても反応はなく、抱きかかえるようにして荷物を調べた兵の一人が、封の破れていない手紙を取り出した。
「名前がある。……“ネミナ・エルディス”?」
差出人の署名を読み上げた兵士に、もう一人が顔を上げた。
「待て……その宛名、“セシリア・マルキエ”って書いてあるな。聞き覚えがある。南方薬草市の診療所の老婦人だ。今でも町の子どもたちに薬草を教えているって……」
「王国の者だと分かっていても、動かす理由は十分だな。……彼女の事、セシリアへ連絡してみるか?」
「そうだな。だが一応、上には黙っておけ。下手に通報されれば、話がこじれるだけだ」
短い相談の末、二人は分かれて行動を始めた。連絡役となった兵士は、最寄りの村を抜けて、セシリアのもとへと早馬を走らせる。
──そして、夜明け。
ぼんやりとまぶたが持ち上がる。見慣れぬ空。見知らぬ天幕。その下で、ネミナは少しだけ身体を起こした。胸元に毛布が掛けられ、土の香りがする草地の小屋に運び込まれているようだった。
「気がついたのね」
優しい声が耳に届いた。振り返ったその先には、白髪を後ろで結い、穏やかな微笑みを湛えた女性が立っていた。ネミナは瞬時に、その面差しに見覚えを覚えた。
「……セシリア……さん?」
「そうよ。久しぶりね、ネミナ」
セシリアは、すでにすべてを理解しているかのような落ち着いた顔で頷き、腰を屈めてネミナの額に手を当てる。
「家へおいでなさい。あなたには、まず安静にできる環境が必要だわ」
ネミナは口を開きかけた。「あの……私……」
だがセシリアはそれをそっと手で制した。
「お話はあとで。ね? あなたが歩いてここまで来たのなら、きっとそれだけで精一杯だったはずでしょう」
その言葉が、胸の奥深くに響いた。
誰かに守られることも、労わられることも忘れていた――ただ逃げて、隠れて、心配で、傷つきながら生き延びてきた日々。そのすべてが、セシリアの一言で崩れ落ちた。
堰を切ったように涙が溢れた。
ネミナは声を上げて泣いた。肩を震わせ、呻くように泣きながら、セシリアにすがりついた。
「……怖かった……!何もかもが……!でも、でも、この子だけは……!何とか守らないとって!それで――」
セシリアは黙ってその背を抱き締めた。母のように、ただ静かに。
「もう、ひとりじゃないわ」
その言葉に、ネミナは嗚咽を繰り返し、やがて全身から力が抜けるようにして気を失った。セシリアはその身体を抱いたまま、優しく言った。
「おかえりなさい。ようやく、安心できる場所に来たのよ」
***
セシリアの家に身を寄せて数日が経った。
薬草に囲まれた落ち着いた木造の家には、太った猫が廊下を練り歩き、珍しい植物が陽だまりに整然と並んでいた。部屋の奥では、ネミナが横たわりながらも穏やかな表情を見せていた。幅広の棚に薬草が美しく並び、その奥には大きな袋のような太った猫が丸くなって眠っていた。珍しい熱帯植物と乾燥ハーブが窓辺を埋め、穏やかな緑と乾いた土の香りで満ちていた。
ネミナの体調は徐々に落ち着きを取り戻しつつあり、穏やかな日差しの降り注ぐ薬草室の一角で、セシリアはハーブを煮出す小鍋を火にかけながら、椅子に腰かけたネミナの隣に湯気の立つカップをそっと置いた。
「今なら、少しは話せそうかしら?」
その言葉に、ネミナは小さく頷いた。どこから話すべきかと迷いながらも、口を開く。
「……レオンが国法違反で捕らえられたんです。私には、何が起きたのかも分からなくて……ただ、そう噂されて……」
「……あなたの想い人が、国を裏切るような真似をするとは、思えないわ」
セシリアは静かに言った。ネミナは瞳を伏せ、続きを語る。
「でも、牢に入れられて……それでも、彼は脱獄を。私は、その……彼の身代わりのように捕まってしまったんです」
セシリアの手がぴたりと止まった。
「身代わりに……?」
「はい。処刑されるはずでした。でも、それは……私を餌に、彼を誘き出すための罠だったんです」
言葉に詰まりかけたネミナに、セシリアはあたたかい眼差しを向ける。
「彼はどうしたの?」
「彼は……現れませんでした。私は、それでよかったと思っています。私の命と引き換えに、彼が討たれるなんて……そんなこと、望んでいなかったから」
そう言いながら、ネミナの両手が小さく震えた。セシリアはそっとその手を包み込む。
「あなたは、強いわね。でも、あなた一人で背負うには……重すぎたわ」
「……処刑は、混乱で免れました。ですが、そのまま……マウリクス侯爵の命令で、また幽閉されてしまって……」
セシリアの眉がわずかにひそめられる。「マウリクス卿……あの男、王国の裏で随分と手を回しているようね」
ネミナは頷いた。
「……しばらくして……身体に変化があることに気づいたんです。その……身ごもっていることに」
「……レオンの、子供なのね?」
セシリアは穏やかな眼差しで尋ねた。ネミナは頷いて答える。
「はい。だから、逃げなければと思いました。この子だけは……私の命に代えても、守りたかった」
ネミナの声はかすれていた。唇を震わせながらも、その眼には静かな決意が宿っている。
セシリアはしばらく黙って、彼女の話を噛みしめるように俯いていたが、やがてそっと立ち上がり、棚の上にあった布を一枚持ってきて、ネミナの肩にかけてやった。
「よくここまで来たわね。……本当によく、頑張った」
その言葉に、ネミナの目尻がまた熱くなる。
「ここは、もうあなたとその子の“砦”よ。誰にも見つからず、誰にも傷つけさせない。私はそう約束するわ」
「……セシリアさん……」
「そしてあなたが、この子と生きていく力をもう一度取り戻したとき……その時は、新しい生き方を一緒に探していきましょう。ね?」
ネミナは深く頷いた。苦難の果てに、ようやく差し込んだ、確かな光。
「ありがとうございます……心から感謝します」
部屋を満たすのは、ただ優しい日常の音――猫の寝息と、窓を叩くそよ風のリズム。
そして、静かに変わり始める彼女の未来と、新たな季節の息吹があった。