70(刻印)
朝霧が山の背をなでるころ、ベルド・メルドリスはすでに滝壺の中にいた。
岩肌を砕くように打ちつける水の奔流に、年季の入った法衣が張りつき、冷気で肌が青白く変色している。だが、彼は膝を折ったまま動かなかった。
「ゼレファス――」
その名を吐いた瞬間、喉の奥に熱のような痛みが走る。――バルナザール討伐の日。あの苦痛と恐怖の叫び、あの瘴気と臓腑の生臭さ。ヴァレンティウスの最期の眼差しが、まざまざと脳裏をよぎる。ゼレファスの干渉。結界を制御できず一瞬の隙が生じ、師は命を落とした。
「ゼレファス……名を以て、おまえを穿つ。穿つために、我は祈る」
寒さではなく、記憶が肉体を震わせる。滝音に負けぬ声量で、ベルドは聖句を唱え続けた。その名を呼ぶこと、それ自体が恐怖の再体験だ。だが、それでも呼ぶ。名を刻むために。力に変えるために。
昼。かつてヴァレンシュタインが隠遁していた石造りの家屋。日々の食事は、山の野草と湯を通した根菜。そして少量の芋のみ。味気ないどころか、苦みと渋みばかりが舌を刺す。だが、それがいい。「快楽」を遠ざけ、「肉体」を整える。悪魔の囁きが入り込む隙間を潰すために。 咀嚼のたびにゼレファスの名を入れた聖句を胸中で唱える。これは鍛錬ではない。対抗儀式であり、誓いの食事だった。
午後。机の上に並べた巻物と祓符。ベルドは、師の遺した細筆を取り、墨を含ませた。筆先は、すでに幾度となくゼレファスの名を刻んできた。手が震える。――いつものことだ。震えるたび、あの日の記憶が骨の芯を冷やす。それでも、書く。一画一画に、祈りを重ねながら。「名に屈するな。あの瞬間が、再び訪れぬように」一文字、また一文字と、ゼレファスの名が刻まれていく。その名は、恐怖ではなく、“支配されぬための道具”となる。
そして夕刻。ベルドは剣を手に取った。ヴァレンティウスの形見。銀の法剣。鍔には聖句、刃には逆向きにゼレファスの名を刻んだ。構えは、師が最期に取ったそれと同じ上段。風の通りを読む。己の軸を整える。そして――振るう。大気が裂け、刃が唸りを上げた。「ゼレファス……!」声とともに、垂直に振り下ろされる一太刀。それは過去への怒りではない。未来への意志だった。
夜。聖水瓶の前で、ベルドは最後の力を振り絞る。瓶ごとに、聖句を百回、ゼレファスの名を百回。繰り返すことで純度が高まり、名に特化した祓力が宿る。どの瓶も、冷気を帯び、触れればひやりとした感触が手のひらに残る。法剣、聖槌、聖水瓶、十字架――すべてが形見。彼を導き、失われた者たちの“遺志”を帯びた道具たちだ。
そして、机に突っ伏す。顔は紙と墨に濡れ、手には筆を握ったまま。意識は深い底へ落ちていく。付き添いの神官たちは、もはや慌てることはなかった。静かに彼を抱え、寝具へと運ぶ。
「また……倒れられたか」小さく嘆息し、そっと額の汗をぬぐう。
その夜、神官たちは彼のために祈る。名に呑まれることなく、それを超える者のために。
「ゼレファス、その名が我が力となるように――」