66(見通)
薬草園の内部は、外から見た以上に広大だった。迷路のように張り巡らされた石畳の小道が、区画ごとに整理された薬草畑を結び、その合間を水路が流れている。水面に映る葉の影が揺らめき、時折吹く風にカモミールの香りが混じって漂った。
回廊の奥に建つのは、白壁と木骨が印象的なL字型の建物で、南棟は治療所、東棟は居住と研究を兼ねた静養舎だ。小鳥のさえずりと薬草を乾かす軋む棚の音が、静けさに柔らかく染み込んでいた。
レオン一行は、まず静養舎の広間に通された。木の梁が高く張られた天井には、乾燥中の薬草束が吊るされ、床には薬草の紋様が刻まれている。陽光が淡いステンドグラスを通り、床や壁に緑と金の斑を落としていた。
「ずいぶん丁寧に手入れされているな……」とゲルハルトが低く呟き、周囲を見回す。
イレガンは無言のまま、部屋の隅に立って外を警戒するように佇んでいた。
「ここ、好きかも」と呟いたのはカレリアだ。棚に近づき瓶詰めの薬草を覗き込んでは、ほっとした表情を浮かべていた。
一方、エメルは興味津々で、先で壁の装飾をなぞり、感嘆の声をあげていた。
「うわ……この壁画、見たことない技法だ! この瓶、装飾が美しい……!」
「こら、触るなって言われてねぇか?」とザモルトが苦笑しながらエメルの肩をぽんと叩いた。
「いいからそこに座ってろ。今は俺の治療を頼んでいるんだからな?」
バロムは少し顔をしかめながら、傷ついた左腕を支えつつ、床の敷物に腰を下ろした。そこに、処置の準備を終えた薬師リシェラが姿を現す。彼女はかつてレオンと学び舎を同じくした薬師であり、今は王妃の専属を務めている。
「まずは傷の具合を確認させてもらうわ」
続いて入ってきたのは、治療師の老紳士――アルセリオ・グラン。銀髪をきっちりと後ろで束ねた痩身の男で、深く刻まれた皺と、落ち着いた声が印象的だった。
「失礼する。すぐに済ませよう」
リシェラが包帯を外し、処置を確認する。
「……これ、レオンがやったの? ほら、すごいわよ。出血も最小限で、患部の保護も丁寧。まるで教本の見本みたい」
カレリアが「おぉ~」と声を上げると、ザモルトが鼻を鳴らして言った。
「だから言ったろ。レオンは見た目と違って手練なんだよ。戦場じゃ治療師ってのは重要なんだ。そんで、本職は薬師だと。心強いねぇ」
レオンは肩をすくめた。
「昔、薬草も包帯も足りない中で、なんとか兵を繋ぎ止めたよ。慣れたくはなかったがね」
「だったら縫合も頼めるかしら?」とリシェラが笑いかけたあと、ちらとアルセリオに視線をやった。「いや、おじいちゃんだけど専門家にね。アルセリオ、お願い」
「ふむ……年寄りをこき使うのが最近の流行か」
そう言いながらも、アルセリオは小さく笑い、手際よく準備を始めた。リシェラが取り出したのは、緑褐色の液体をたたえた小瓶。それを布に浸してバロムの腕に当てる。
「麻酔効果のある薬草を濃縮したものよ。ちょっと沁みるけど、しばらく我慢して」
数分が経ち、リシェラが優しく腕を叩く。
「どう? 感覚は?」
「……鈍くなってる。たぶん、いける」
「じゃあ始めましょう」
アルセリオの手元が動く。糸と針が傷を縫い合わせるたび、バロムがぴくりと肩を震わせた。
「……いってぇ……!」
「深部までは効かないのよ。我慢して!」とリシェラが即座に言い放つ。
それでも、アルセリオの手際は見事だった。糸が整然と走り、縫合はあっという間に終わる。レオンが持参した戦傷粉を患部にふりかけ、包帯で丁寧に巻き上げる。
「これで安静にしていれば、炎症も広がらないはずだ」
「ありがとよ……爺さん。あと、お前もな、レオン」
バロムは強がっていたが、顔色はどこか青ざめ、処置の痛みに疲れが滲んでいた。
「無理はするな」とアルセリオが優しく言い、バロムはおとなしく頷いた。
「でも……突然で驚いたわ。ここにあなたが来るなんて、思いもしなかった」リシェラが首を傾げる。
「……本当は南へ向かう途中だった。私は今、ネミナを探している。マウリクスの助言があって彼女の行方を追っている途中で、バロムが傷を負った。王城へ戻るよりこちらへ立ち寄る方が良いと判断したんだ」
レオンは自然と笑みを浮かべて話したが、その和やかさを破るように、リシェラがぽつりと呟いた。
「でも、ネミナのこと……マウリクス様が囲っていたらしいわ。あんたが国法違反で牢に入れられたあと、王都で何度も姿を見たって話があるの」
空気が変わった。
レオンの眉がぴくりと動き、笑みがすうっと消える。
「……なんだと?」
「信用はできないわ。あの人……王都でずっと動いていた。ネミナを隠していたのも、王妃様を遠ざけたのも。たぶん、あのとき処刑場にネミナを引き出したのも──」
「……まさか……」
レオンの顔から血の気が引いた。
その場の空気が一気に凍りつく。
「ということは──処刑場にネミナを引き出して俺を誘い出そうと画策し、宰相を処刑に追いやったのも、マウリクスが関係している……?それに、アルデマン将軍の挟撃に加わったのもマウリクスの兵だった……」
その言葉には怒りが滲んでいた。
今まで感じていた違和感が、ひとつに繋がる。
「すべて裏で糸を引いていたのか……!」
握りしめた拳が小さく震えた。
ゲルハルトが一歩前に出て、低く唸る。
「……それが真実なら、ヤツは王国を裏から支配しようとしているな」
「ただの陰謀じゃ済まされないわね」と、カレリアも呟く。
リオスは無言のまま壁際で目を細めていたが、静かに問いかけた。
「ネミナ……彼女の行方もマウリクスが握っているのか?」
「いや、幽閉先から逃げ出したようだから、マウリクスも彼女の行方を捜索中だろう」
レオンの声が低く響いた。
その時、リシェラがふと思い出したように言った。
「そういえば……彼女、東方帝国に知人がいたはずよ。昔、旅の話をしていたわ。あの地に身を寄せている可能性は、あるかもしれない」
「東方帝国……!」
レオンの目に新たな光が宿った。思わぬ手がかりに、仲間たちも顔を見合わせる。
リオスが「行き先は定まったようだな」と呟くと、ゲルハルトが腕を組み、「ならば、準備を整えるだけだ」と静かに言った。
その安堵の空気が流れる中、リシェラがふと声を落とした。
「……セリーヌ様のことなんだけど」
レオンが振り返る。
「何か、あったのか」
「病状が気になるの。まるで……体の奥から自らを蝕んでいくような、血の逆流
にも似た――あなたが“薄紅病”と呼んでいた病に、酷似している症状が出てる」
レオンの目が鋭くなった。
「その名の通りだな。原因ははっきりしないが、治療の糸口はある。対症的だが、熱や痛みを抑えることができれば、かなり生活の質を保てる」
「そう……それが聞きたかったのよ」
リシェラの目に安堵の色が浮かぶ。
「ただ、調合には道具が必要だ。ここにないなら――」
「不問だな」
アルセリオが静かに笑った。
「この薬草園は王家の資源だ。およそ医術に必要なものは、ここに揃っていると思ってくれていい」
レオンは微かに笑った。
「そうか。心強いな」
エメルはというと、棚に積まれた薬瓶を数本抱えてきて、「これ、持って行っていいかな!? ね、ね、ちょっとだけでいいから!」と興奮気味。
「落ち着けエメル。その瓶、割ったら罰金だぞ」とザモルトが笑う。
静かな薬草園に、束の間の穏やかな空気が流れていた――嵐の前の、貴重な静けさだった。