64(志操)
王城、荘厳な石柱が連なる部屋に、ひとりの報告官が膝をつき、低い声で言った。
「マウリクス様。ベルン様の雇った賊ですが……失敗いたしました。負傷者が出た模様で、一行は西へ進路を変え、薬草園へ向かっているとのことです」
マウリクスの指が、椅子の肘掛を軽く叩く。その表情が一瞬揺れた。
(……私からも偵察を出しておいて正解だったな。まさか暗殺が失敗するとは。それに、薬草園――あそこは、元王妃が身を潜めたとされる場所……)
鋭い思考が巡る。元王妃がいるということは、当然、王家直属の護衛兵も潜伏している。
つまり、彼らが薬草園に向かえば、元王妃の存在に気づくこともありえる。そして――接触、あるいは衝突。
(かち合えば混乱は避けられまい。もしそれで共倒れしてくれれば好都合だが……さて、どう動くべきか)
マウリクスの眼光がわずかに細くなる。室内には再び静寂が戻った。
* * *
王都北方の一角。高い石壁に囲まれた古びた屋敷。その地下にひっそりと佇む隠れ家があった――王家の秘密の拠点である。
そこに身を寄せていたのは、先日まで牢獄にいた青年、シグルド元王子であった。
もちろん、彼が牢に入れられていたのは罪によるものではない。
生き延びるために偽名を用いて潜伏していたのだ。
(王子を探す手が、牢獄にまで及ぶことはない。なにより、監視が最も厳しかったのは城外の隠れ家だ)
財務卿の部下には、王に忠誠を誓った看守が多くいた。その連携体制を活用し、シグルドは牢内でも優遇され、守られていたのである。
そして今、王城の混乱の最中、表向きの捜査が一段落し、危険がやや和らいだことを受けて、護衛を従えて彼はついに隠れ家へと移動した。
この場所は、王城付近にありながら秘密裏に存在するため、敵の手は及びにくい。
加えて、城内の動向を迅速に把握できるという利点もある。
シグルドは隠れ家の窓から外を見やりながら、静かに息を吐いた。
(父の治世が“弾圧”だったというなら、今の政は“恐怖”だ。イシュメルの信仰者が皆殺しにされるなど……あってはならぬことが起きている)
街は狂信的な教徒であふれ、かつてあったはずの良識も理性も失われつつある。
民は恐怖に声を上げることすらできず、ただ従うのみ。
(……力を蓄えねばならぬ。今はまだ、牙を隠す時だが)
その瞳には、父から託された未来の火が、静かに燃えていた。