61(僭称)
ラウルの心核は、もはやかつての面影を残してはいなかった。
透き通るように輝いていた核は、いまや煤けた黒に染まり、ひび割れた器のようにその身を歪めていた。ミリアの手により持ち去られたその瞬間から、再び光を宿すことはなかったのだ。ミリアがどれだけ祈りを捧げようと、どれだけ儀式を繰り返そうと、そこに戻るべき啓示の光はすでに存在しなかった。
なぜなら、ラウルの心核に宿っていた“啓示の力”は、ゼレファスではなくバルナザールの力に由来していたからだ。ゼレファスには、破壊し、混沌を撒き散らす力こそあれど、新たな事実や理を「予言、予測する」力は存在しなかった。そのため、ゼレファスがミリアの奉仕によって現世に受肉するには、どうしても器が必要だった。
黒く変色した心核は、すでに文字すら浮かび上がらず、黙して語ることもない。ミリアはその事実を隠すように、厳重に祭壇へと安置し、『自らの手でしか触れてはならぬ“神聖なる遺物”』として、信者に周知した。触れることも、目にすることすらも禁じることで、失われた力を誤魔化したのだ。
だが、その本質を最もよく理解していたのは、他ならぬミリア自身だった。
ゼレファスと契約を交わして以降、ミリアの人格は変貌を遂げていた。もともと明るく、穏やかだったはずの瞳には狂気が宿り、彼女の信仰は理ではなく感情、そして本能によってかき乱されていった。もはや彼女は“啓示”を受け取る者ではなく、ゼレファスの意図を直接感じ取り、行動する“器”そのものとなっていた。
ある夜、ミリアは自らの排卵周期を予知の如く感じ取り、その瞬間、ゼレファスの意思が己の肉体に染み渡っていくのを悟った。彼女の子宮に、新たな命が宿ったのだ。男の存在なくして。
城外に設けられた広場。セトが絶命し、シグナスが処刑されたこの場所は、かつて反逆者や異端者が磔にされ、群衆の目前で命を散らした。今では神聖な集いの場とされ、白い幕と香を炊いた炉が、血の記憶を覆い隠していた。だが石畳の隙間には、いまだ古き死の気配が微かに残っている。
その中心に、今まさにミリアが壇上を設えようとしていた。
白銀の帳が垂れ、壇には光の印が刻まれた厚重の箱、内部には黒く染まった“ラウルの心核”が奉納されている。その両脇を固めるのは、黒衣に身を包んだ武装した信者たち。彼らの手には儀式用の長槍が握られ、その目は熱に浮かされていた。
数日前、ミリアは信者たちに「神より重大な啓示を受けた」とほのめかし、『新たな啓示の集い』と銘打って城内外に号令を発していた。配下の信者たちは必死に人々を駆り立て、遠方の信者たちすら、昼夜をかけて集まってきた。
――今日、何かが始まる。
その期待と不安に満ちた空気が、広場を埋め尽くしていた。
信者たちは総勢五百名以上。中には旅の祈祷師、貴族の令嬢、血に飢えた異端狩り、盲目の老婆など、あらゆる階層が集っていた。皆一様に胸に光の印を掲げ、震えるように息を殺していた。
やがて、空気が張りつめるようにして、ミリアが現れた。
金糸の入った白いローブをまとい、かすかな香の煙を纏いながら、彼女はゆっくりと壇上へと歩を進めた。陽光は雲の切れ間から射し込み、あたかも神が彼女にスポットライトを当てるかのようだった。
ミリアは立ち止まり、ゆっくりと両手を広げた。
「――兄弟姉妹よ。今日という日は、長き信仰の果てに現れた約束の刻である」
ざわり、と群衆が動揺する。
「我らは幾多の試練を越えてきた。嘘の光に惑わされ、偽りの神に傷つけられ、それでもなお、信じ続けた。神の言葉を。導きの灯を」
ミリアの声は、温かく、柔らかく、それでいて鉄のように硬かった。
「私は……身に宿しました。新しき神の子を」
沈黙が広場に落ちる。
「男の手によらず、血の契りなく、ただ、神の意志によって。我が胎に光が宿ったのです。これは、時代の胎動であり、旧き罪の終焉であり、新しき神性の幕開けなのです!」
信者の間に、うめき声が漏れた。涙を流す者、膝を折る者、意味もなく頭を振る者。
「これが、ルクスの子の意志です!」
その名が口から放たれた瞬間、空が低く唸ったような気がした。
「今この時から、私は啓示を言葉にせずとも“感じ”、行動する者となった。神の意志は、私を通じて世界に滲み出る。信者よ、目を覚ませ。真なる光は、ここにある!」
すると、後方にいた神官の一人が雄叫びを上げた。
「神の子に栄光あれ!」
「ルクスの導きに従わん!」
信者たちの熱狂は爆発し、広場は咆哮のるつぼと化した。涙と歓喜が交錯し、ミリアは微笑を浮かべ、まるで天を見上げるように手を掲げた。
だがその背後に、クラウスは控えていた。壇から遠ざかった場所の隅、あらかじめ確保していた影のような立ち位置で。
その額には、冷たい汗が滲んでいた。
(……妊娠? まさか……いや、そんな馬鹿な……神の子だと? 誰が……誰がそんなことを――本気で言っているのか……!)
隣に控えるダグラスが小声で囁いた。
「どうします?このままだと、信者の暴走は止まりませんよ」
クラウスは歯噛みした。
(くそっ……どうなっている……!?これじゃあ俺の計画が……)
彼は目の前で狂信が立ち上がる様を見つめながら、己の理性が吹き飛ばされるような感覚を覚えた。
(……止めなくては。だが、どうやって?)
ミリアの演説はまだ続いていた。
まるで、これから世界を作り変える者のように。
ミリアの胎に宿る“何か”に、彼は本能的な嫌悪と恐怖を覚えた。
やがて、ミリアは新たな“啓示”を告げる。それは、かつての光を偽り、狂信を燃え上がらせる“歪んだ福音”であった。
「イシュメルの残光が蠢いている。旧光会は異端者で満ちている。今こそ、ルクス教の力を発揮すべき時が来た。信者よ、武器をとれ。過去に蔓延っていた忌まわしき異端を、根絶するのだ!」
***
狂ったように信者たちは喚き、旧教会の跡地や街中の集会場を襲撃しはじめた。かつて祈りの場だった街の広場は、いまや焼けた香の匂いに代わって、煙と血と叫び声に満ちていた。
止めねばならない――そう思ったクラウスは、説得を試みる。
「ミリア、目を覚ませ!これは啓示なんかじゃない、ただの…」
「違います。これは“新たなる導き”なのです。私は、私の中に宿った神の子の声を、あなたに伝えているのです」
武装した信者たちがクラウスを取り囲む。狂信はもはや、言葉では止められない段階に達していた。
「チッ…なんてことだ……!!」
怒りと焦燥を押し殺し、クラウスは護衛役のダグラスと共にその場から撤退する。
(くそっ!ミリアを止める手段を、何か……何か考えなくては!)
だが、クラウスの苦悩とは裏腹に、街の混沌は加速していく。
そして、ゼレファスの“幼体”が、その胎の中で静かに蠢いていた。