59(聖骸)
頬を撫でるように穏やかな山風が吹いていた。
北西部の険しい山岳地帯。その中腹にひっそりと建つ石造りの小屋は、かつて聖印官ヴァレンティウスが暮らしていた場所。今はその家の中心に、白い花で覆われた一つの棺が安置されている。
重厚な静寂の中、神官たちの祈りが低く響く。
彼の死は、あまりにも突然だった。
バルナザールとの戦い──
番の悪魔が結界を破り、戦局を混乱させた末、バルナザールの魔性は完全には祓われず、ヴァレンティウスの中へと流れ込んだ。
彼はそれを、己の中に封じ込め、ベルドに終わらせることを命じた。
そして──そのまま崩れ落ちたのだった。
「……穏やかな、顔だ」
棺のそばに跪く影。ベルドだった。
その手には、ヴァレンティウスの形見となったいくつかの遺品が握られている。
丁寧に磨かれた銀の十字架。祈りの言葉を書き記した細筆。
そして彼が最後まで手放さなかった聖槌と、簡素だがよく手入れされた剣。
かつて天命をその身に宿した大司祭。その生涯を称え、葬送の儀はベルド自らが準備した。
「ゼレファスは、私が終わらせます」
その声に、迷いはなかった。
ベルドの瞳は静かに、だが燃えるように光を宿していた。
彼の足元には、祈りを捧げるために集った神官たちと、直属の護衛兵たちの姿がある。
誰もが、ベルドが再び剣を取る覚悟を感じていた。
(私が進まねば、誰が彼の魂を救えるというのか)
神官として、祈り手として、そして一人の人間として。
ベルドは静かに立ち上がる。
神官装束の裾を風がはためかせ、彼の影が棺に寄り添うように伸びていた。
──修行が必要だ。
長く務めた神官長という肩書きは、祈りよりも政の言葉を口にする日々を強いた。
祭壇の前に座る時間より、玉座の傍らで耳を傾ける時間のほうが、いつしか長くなっていた。
自らの魂がどれほど穢れていたか──ようやく気づいたのは、祈りが胸に届かなくなったときだった。信仰の修練を歩んでいたはずが、気がつけば私は帳簿と印章の前にばかり立っていた。神官長という名の皮を被り、神の代弁者として振る舞いながらも、私はただ、王の都合のよい道具に成り下がっていたのかもしれない。
いつから私は、祈ることをやめていたのだろう。
あの玉座の間で、何を見て、何を守ってきたのか。
バルナザールとゼレファスの悪意に晒された今ようやく、己がどれほど鈍りきった祈りを捧げていたのかを思い知らされた。
それに、祈りだけでは足りない。
魂を磨き、鍛え、己を律する術を身につけなければ……
ヴァレンティウス様のように──
ベルドはこの場に留まり、厳しい環境に身を置く決意を固めていた。ここは、聖印官が長年祈りを捧げてきた聖域。己を鍛えた地でもある。
「待っていてください。ヴァレンティウス様が得た名……決して無駄にはしません」
祈りと決意を胸に、ベルドの戦いが始まる──