54(祓魔)
結界の中心、聖印官であるヴァレンティウスが聖句を唱え続ける。
空気は揺れ、光が歪み、空間が焼け焦げるような感覚。
「光は影を裂き、真は偽りを斬る。我、汝を追い詰めん。逃れし道はここにあらず」
「汝を逃さず。天の御名において、地に縫いつけられよ」
祭壇上、遺物が載った器がカタカタと震え出す。
ヴァレンティウスは心核に聖水をかける。
「姿を現せ。闇に潜む者よ、天の光の下に引きずり出されよ」
その時、ヴァレンティウスの蟀谷がピクリと動いた。
「汝の名を知りし今、支配は我にあり。バルナザール、汝はもはや隠れ得ん」
黒煙が血のように噴き出し、バルナザールの姿が脈動する影とともに歪む。
頭部――額の中央には角を備えている。異形の呻きが響き苦悶する——。
瘴気より漏れ出す、無数の声。
それは嘲りでも呻きでもない。苦痛と恐怖が混ざり合った叫び。
「クアァァァ……!グアァァァァアゥヴ!!」
瘴気の中で焼かれる何かが蠢いている。
人型。皮膚が剥がれ、骨、内臓が露わになり、吠える。山羊のような顔貌。
傍で経を唱えていた神官長ベルドが突如、呻き声を漏らす。
「ヴァ……ヴァレンティウス様……わたしは……」
彼の顔面が蒼白になり、次の瞬間、腹を押さえて嘔吐。
吐瀉物の中に、黒い瘴気のようなものが混じる。
「……ぐッ」
ヴァレンティウスは唱える。なおも唱える。
「バルナザールよ、汝を逃さん。天の御名において、汝を滅ぼす」
「我が言葉は刃となり、我が意志は剣となる。汝の虚を断ち、形を裂かん」
ヴァレンティウスは立て掛けた長剣を手にし、刃を濯ぐように聖水を流す。
鍛え抜かれた筋骨隆々の両腕は神聖を帯び、咆哮とともに剣を掲げる。
「——天の御名において。我は剣、汝は罪 」
血のような赤黒い瘴気を払い除けながら、バルナザールに歩み寄る。
悪魔は咆哮するが、恐怖を含んでいた。
「沈黙せよ、地獄の狗!」
ヴァレンティウスは剣を構える。
肩幅に足を開き、腰を据える正しき斬撃の型。剣先を天に向けるよう振りかぶる。
一閃。時間が止まったかのような静寂。
やがて――
「ザリ…」
悪魔の肉体が裂け、断ち切られる。
悪魔の胴体が左右に崩れ落ち、瘴気が噴き出す。
左半身にバルナザールの心臓が露出する。脈動していたそれが、剣の熱で焼かれるように萎み始める。
ヴァレンティウスの眉が一瞬揺らぐ。
「外から干渉がある!まずい結界が……破られつつある!ぐッ......」
だが、彼は即座に叫ぶ。
「ベルド!聞こえるか、あとは心臓だけだ!心臓を潰せばッ……!」
しかしその瞬間——
悪魔の心臓が、自らの血肉を再構築し始める。
ヴァレンティウスの胸元から黒煙が吸い込まれ……
彼の肉体が膨張するように脈打ち始めた。
「ぐっ……あっ……!!……まさか……!?」
瞳の黒が白に反転し、皮膚に赤黒い血管が浮かび上がる。
額から、捻れた羊の角が突き出す。
「まずいッ!番だったかッ!!」
呻いた後、ヴァレンティウスは唱える。守る為に。
「我、動かず。我、揺らがず。いかなる囁きも、我を惑わすこと能わず」
「この身に宿りし汝を、聖なる命令によりて放逐す。去れ、バルナザール」
バルナザールの重く、粘つく咆哮は室内を這いまわり、石壁を黒く焼くように染めながらこだました。
そのたびに神官長は耳を塞ぎ、膝をつき、胃の奥から何かを吐き出した。
「我が魂、汝を拒む。この身も心も、天によりて護られし聖域なり」
「汝如きに我は倒れぬ。この肉は滅びず、魂は折れぬ。天よ、我に力を与えたまえ」
「黙せよバルナザール。汝の偽りの言葉はここに断たれる」
「誘惑は虚無。我は汝に心を委ねぬ。天命に従いし者なれば」
反響は一度では終わらない。
二度、三度、音が壁にまとわりつき、螺旋を描いて戻ってくる。
「ベルドォ!!儂もろともでかまわん!心臓を貫けぇッ!!聖水を撒き、終詞をッ!!」
なおも唱える。
「我、汝をこの身に封じ、天の御裁きに委ねん!逃れ得ぬ鎖を与えん!!」
ベルドは震える手で剣を握り締める。
「で、できぬ……あなた様を……」
「早くせんか!!このままではわれらともに死ぬことになるぞ!!
早くやれ!!今すぐッ!!!」
ベルドは、涙を浮かべながら剣を構える。
「ヴァレンティウス様……くそッ!!バルナザールッ!!」
剣を突き立てる。
ずぶり、と音を立て、銀の刃がヴァレンティウスの胸を貫く。
「聖水をもって汝の穢れを洗い流す!バルナザールよ、叫べ!苦しめ!!」
ベルドは聖水を振りかけると、バルナザールの悲鳴が天を裂くように響く。
「ギィィイイアアアアアァァァァ!!!」
ベルドは震える声で、しかし確かな声で言葉を放つ。
「天よ、我を試みし者は打ち倒されん。御名において、汝の敵、バルナザールを葬らん」
炎のような光が、ヴァレンティウスの心臓部から噴き出し、悪魔の瘴気を焼き尽くす。
沈黙。
そして——
空気が静寂と喪失感に包まれる。
ラウルの心核は割れ、光は失われた。