53(傀儡)
夜の静寂を払うように、空が薄桃色に染まり始めたころ――
ミリアは神殿の祭壇へと足を踏み入れた。
いつものように沈黙と冷気に包まれていたが、彼女の表情はただならぬものだった。祭壇に近づき、心核を見下ろす。細く指を伸ばし、掌に取った瞬間、その瞳が鋭く光った。
「……これは、偽物です」
その一言は、まるで雷鳴のように神殿に響いた。
衛兵たちが一斉に顔を上げ、信者たちがざわめき出す。
「誰かが――ラウルの心核を盗み出した!」
振り返ったミリアの姿はまさに、悪魔の怒りを背負う狂信者だった。
「城内をくまなく探せ!出入りした者すべてを記録から洗い出せ!!」
兵士たちが動き出し、城内の警戒は一気に戦時体制へと引き上げられた。
***
そのころ、セントラグラ東部。朽ち果てた教会の跡地。
古びた礼拝堂の奥、砕けたステンドグラスの先にある祭壇の間で、ヴァレンティウスは静かに歩いていた。
長い外套の裾が、粉塵を巻き上げる。片手には聖水を、もう一方には金の細筆を持ち、空間の四隅に神の言葉を記してゆく。
「……我、天なる父の御名によりて、この場を清めん」
声は低く、祈りのように、しかし厳かに響いた。
彼の描く文様はほのかに光を帯びて、その明かりが部屋全体に満ちていく。最後に彼は聖水をまき、祭壇の中央に空きの器を置いた。
「遺物をここに。悪魔はその器に宿る。われらはそれを引き剥がし、幽体へと還し、神の力をもって裁く」
それが、ヴァレンティウス流の悪魔祓いだった。
遺物を中心に魔の力を引き出し、実体化した悪魔の姿を、剣と槌で討つ。
――ただの儀式ではない。命を賭した実戦である。
しばらくして――
石造りの扉が軋む音を立てて開いた。
ベルドが現れる。その背後には数人の神官。だがベルドの顔色は死者のように青ざめていた。
「……持ってきました。間違いなく、やつらがラウルの心核と呼ぶ遺物です」
その手から漏れた淡く光る燐光は不吉さを孕み、脈動する石は、心臓の様――
だがヴァレンティウスが視線を向けたその瞬間、周囲の空気が明らかに変わった。
「強力になっている。だが……まだ払える。ベルド、そなたは私の傍に」
ヴァレンティウスは微かに頷き、淡々と指示を出す。
「他の者は室外へ。外の気配に警戒を。これより結界を閉じる」
神官たちは緊張した面持ちで頷き、扉の外へと姿を消した。
ヴァレンティウスは静かに、しかし断固たる態度で心核を祭壇に置いた。
「よし、始めるぞ」
***
一方、王城――
執務室の奥、王の私室。
レオンは両手で頭を抱えていた。
「……おれは……どうしたらいい……?」
奪われた遺物、混乱する兵、そしてミリアの怒り。
ルクス教として導いてきた全てが、彼の胸の中で崩れていくようだった。
その様子を見ていたクラウスは、深いため息をついた。
そしてその時――
ミリアは、すでに馬に乗って王城を出ていた。
長いマントを風に翻し、迷わず東へ。