48(玉座)
霧が立ち込めるセントラグラ城――その静寂を破ったのは、遠くで響く鉄靴と、血を吸った風の匂いだった。
王座では、現王がその中心――絢爛たる玉座に座す男は、微動だにせず、それを迎えていた。
深紅のマントが、玉座の階に垂れ下がる。
その縁は金糸で縫われ、王たる者だけが身にまとうことを許された証――
この国を象徴する威光そのものだった。
剣戟の音は既に扉の外まで迫っていたが、王の表情に動揺の色は一切なかった。
逆巻く情勢を前にしても、その眼光は鋼のごとく研ぎ澄まされ、血の気を宿す者すら射抜く力を持っていた。
王の両腕は、玉座の肘掛にそっと置かれ、背筋は寸分の歪みもなく伸びている。
まるで、彼の存在そのものが城壁であり、王国であるかのような、圧倒的な存在感。
重い空気を押し分けて、近衛が駆け込んでくる。
「陛下、侵入者です! ――南棟、そして東回廊が制圧されました! 奴らは……青黒傭兵団です!」
王は目を細め、咳を抑えつつも顔を上げた。
「ついにここまで来たか……」
その名を呟いた時、最高神官セリアスが静かに立ち上がる。
かつて神殿と王権を繋いできた神官は、最後の矜持を胸に剣を手にした。
「陛下……私は、王家と神への誓いに従い、この身をもって抗います」
王はわずかに頷くと、側近に命じた。
「扉を閉じよ。……だがセリアス、命を投げるなよ」
だがその願いは、届かなかった。
正面玄関を突破した〈青黒傭兵団〉は、各階層を制圧しながら、着実に王の間へと迫っていた。
その先頭に立っていたのは、傭兵団長――ゲルハルト・ヴォルク。
肩まで伸びる鉄糸を撚ったような黒髪、傷だらけの頬、そして漆黒の鎧を纏ったその巨躯は、まさに戦場の死神だった。
彼とセリアスが、王の前で相対した瞬間――空気が凍りつく。
「貴様が最後の砦か、坊主。剣の扱いはどんなものかな」
「貴様ら傭兵風情に、王に剣を向ける資格はない」
短い言葉のあと、火花と共に刃が交錯する。
セリアスの剣技は騎士剣術を極めたもの。護衛の教練では敵なしだった。だが――。
「……ふっ。思ったよりはやる」
「――っ!」
ゲルハルトの剣が唸りを上げる。回避したはずの斬撃が、まるで追尾するかのようにセリアスの側腹部を裂いた。
迫りくる重い剣戟に一歩、また一歩と後退させられるセリアス。額から血が流れ、息が荒くなる。
「それでも、私の使命は……果たさねば……」
しかし、最後の一閃を迎えることはなかった。
ゲルハルトの剣が閃き、刃が神官服ごと胸を貫く。
セリアスは膝をつき、静かに笑った。
「……陛下……どうか……誇りを……」
そのまま、彼は音もなく崩れ落ちた。
剣を手にした彼らの顔には血が跳ね、冷徹な殺意が剥き出しだった。玉座の間はあっという間に制圧された。
最前に立つ団長ゲルハルト・ヴォルクが、ひときわ重い足音で進み出る。
だが、その眼が捉えた王の姿に、一瞬だけ眉をひそめた。
――座っている。
どれほどの血が流れようとも、何人が倒れようとも、王は立たず、逃げず、降りず。
ただ、そこにいる。
王は静かに口を開いた。
「私を討つのが貴様の目的か? それとも、この王座そのものか」
声に震えはなかった。
むしろ、問われたのは剣を持つ側――傭兵たちだった。
ゲルハルトが一歩前へ出た。
剣先が王の胸に届かんばかりの距離。
「……命惜しくば、今この場で跪け」
だが王は応じなかった。
その眼には、もはや生死すら恐れぬ者の、凄烈な光が宿っていた。
「命など、とうに天に預けておる」
「だが、私は――王であるがゆえに、地を見下ろすのではなく、この玉座とともに滅びなくてはならぬ」
その言葉に、一瞬、傭兵たちの間にざわめきが生じた。
怯えではない、畏れだった。
剣を捧げたことのない者には決して辿り着けぬ、“王の覚悟”という名の烈火。
王は最後に、深紅のマントを揺らしながら、重々しく言い放つ。
「奪うがいい、この王座を」
「だが――その価値を、貴様らに担えるか?」
その刹那、玉座の間に満ちていたのは、勝者の喧騒ではなく、敗者の尊厳だった。
数刻後――
玉座の間には、玉座の王と、死体からあふれる血に濡れた床に、傭兵たちの武器が並べ置かれていた。
王はすでに口を閉ざし、何も語らなかった。
「……処刑は……?」
「クリス様とクラウス様の判断を頂きたく」
王はかすかに笑ったように見えた。
(……あの男が来るか……ならば、もはや我が世はここまで)
そして――遅れて入城したのが、啓示を得たクリス一行だった。
クラウスは歩を進めながら、戦火に巻かれた玉座の間を見渡す。
後ろにはミリア、バロン、エメル、そして多くの信者と私兵、傭兵たちが控えていた。
血に濡れた絨毯。聖なるものと不浄なものが混じり合う空間に、全員が無言のまま立ち尽くす。
「……やった……王城が……陥落した」
誰ともなくつぶやいたその言葉は、まるで夢のようだった。
胸に広がるのは、歓喜と安堵、幸福と恐怖――そして、言い知れぬ空虚感。
ミリアは啓示の通りに事が運んだことに高揚しながらも、クリスの横顔からは憂いが消えていないことを感じ取っていた。
一方、クラウスは王の虚ろな目を一瞥しながら、無言で勝利の価値を計算する。
バロンは、エルドがこの場にいない現実を胸に噛みしめていた。
エメルは静かに、床に落ちた金貨の一枚を拾い上げ、裏面の模様を眺めている。
「……この造幣技術、王国のものだ。見事だな……」
だが、そのとき――兵の一人が駆け込んで来た。
「報告! 王妃と王子の姿が……見当たりません!」
王は、微かに笑った。
それは――希望とも、絶望とも取れる、老いた者の最後の意地だった。