表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/108

48(玉座)

 霧が立ち込めるセントラグラ城――その静寂を破ったのは、遠くで響く鉄靴と、血を吸った風の匂いだった。

 王座では、現王がその中心――絢爛たる玉座に座す男は、微動だにせず、それを迎えていた。

 深紅のマントが、玉座の階に垂れ下がる。

 その縁は金糸で縫われ、王たる者だけが身にまとうことを許された証――

 この国を象徴する威光そのものだった。

 剣戟の音は既に扉の外まで迫っていたが、王の表情に動揺の色は一切なかった。

 逆巻く情勢を前にしても、その眼光は鋼のごとく研ぎ澄まされ、血の気を宿す者すら射抜く力を持っていた。

 王の両腕は、玉座の肘掛にそっと置かれ、背筋は寸分の歪みもなく伸びている。

 まるで、彼の存在そのものが城壁であり、王国であるかのような、圧倒的な存在感。


 重い空気を押し分けて、近衛が駆け込んでくる。

「陛下、侵入者です! ――南棟、そして東回廊が制圧されました! 奴らは……青黒傭兵団です!」

 王は目を細め、咳を抑えつつも顔を上げた。

「ついにここまで来たか……」

 その名を呟いた時、最高神官セリアスが静かに立ち上がる。

 かつて神殿と王権を繋いできた神官は、最後の矜持を胸に剣を手にした。

「陛下……私は、王家と神への誓いに従い、この身をもって抗います」

 王はわずかに頷くと、側近に命じた。

「扉を閉じよ。……だがセリアス、命を投げるなよ」


 だがその願いは、届かなかった。

 正面玄関を突破した〈青黒傭兵団〉は、各階層を制圧しながら、着実に王の間へと迫っていた。

 その先頭に立っていたのは、傭兵団長――ゲルハルト・ヴォルク。

 肩まで伸びる鉄糸を撚ったような黒髪、傷だらけの頬、そして漆黒の鎧を纏ったその巨躯は、まさに戦場の死神だった。

 彼とセリアスが、王の前で相対した瞬間――空気が凍りつく。


「貴様が最後の砦か、坊主。剣の扱いはどんなものかな」

「貴様ら傭兵風情に、王に剣を向ける資格はない」

 短い言葉のあと、火花と共に刃が交錯する。

 セリアスの剣技は騎士剣術を極めたもの。護衛の教練では敵なしだった。だが――。


「……ふっ。思ったよりはやる」

「――っ!」

 ゲルハルトの剣が唸りを上げる。回避したはずの斬撃が、まるで追尾するかのようにセリアスの側腹部を裂いた。

 迫りくる重い剣戟に一歩、また一歩と後退させられるセリアス。額から血が流れ、息が荒くなる。

「それでも、私の使命は……果たさねば……」

 しかし、最後の一閃を迎えることはなかった。

 ゲルハルトの剣が閃き、刃が神官服ごと胸を貫く。

 セリアスは膝をつき、静かに笑った。

「……陛下……どうか……誇りを……」

 そのまま、彼は音もなく崩れ落ちた。


 剣を手にした彼らの顔には血が跳ね、冷徹な殺意が剥き出しだった。玉座の間はあっという間に制圧された。

 最前に立つ団長ゲルハルト・ヴォルクが、ひときわ重い足音で進み出る。

 だが、その眼が捉えた王の姿に、一瞬だけ眉をひそめた。


 ――座っている。

 どれほどの血が流れようとも、何人が倒れようとも、王は立たず、逃げず、降りず。

 ただ、そこにいる。

 王は静かに口を開いた。

「私を討つのが貴様の目的か? それとも、この王座そのものか」

 声に震えはなかった。

 むしろ、問われたのは剣を持つ側――傭兵たちだった。


 ゲルハルトが一歩前へ出た。

 剣先が王の胸に届かんばかりの距離。

「……命惜しくば、今この場で跪け」

 だが王は応じなかった。

 その眼には、もはや生死すら恐れぬ者の、凄烈な光が宿っていた。

「命など、とうに天に預けておる」

「だが、私は――王であるがゆえに、地を見下ろすのではなく、この玉座とともに滅びなくてはならぬ」

 その言葉に、一瞬、傭兵たちの間にざわめきが生じた。

 怯えではない、畏れだった。

 剣を捧げたことのない者には決して辿り着けぬ、“王の覚悟”という名の烈火。

 王は最後に、深紅のマントを揺らしながら、重々しく言い放つ。

「奪うがいい、この王座を」

「だが――その価値を、貴様らに担えるか?」


 その刹那、玉座の間に満ちていたのは、勝者の喧騒ではなく、敗者の尊厳だった。

 数刻後――

 玉座の間には、玉座の王と、死体からあふれる血に濡れた床に、傭兵たちの武器が並べ置かれていた。

 王はすでに口を閉ざし、何も語らなかった。


「……処刑は……?」

「クリス様とクラウス様の判断を頂きたく」

 王はかすかに笑ったように見えた。

(……あの男が来るか……ならば、もはや我が世はここまで)


 そして――遅れて入城したのが、啓示を得たクリス一行だった。

 クラウスは歩を進めながら、戦火に巻かれた玉座の間を見渡す。

 後ろにはミリア、バロン、エメル、そして多くの信者と私兵、傭兵たちが控えていた。

 血に濡れた絨毯。聖なるものと不浄なものが混じり合う空間に、全員が無言のまま立ち尽くす。


「……やった……王城が……陥落した」

 誰ともなくつぶやいたその言葉は、まるで夢のようだった。

 胸に広がるのは、歓喜と安堵、幸福と恐怖――そして、言い知れぬ空虚感。

 ミリアは啓示の通りに事が運んだことに高揚しながらも、クリスの横顔からは憂いが消えていないことを感じ取っていた。

 一方、クラウスは王の虚ろな目を一瞥しながら、無言で勝利の価値を計算する。

 バロンは、エルドがこの場にいない現実を胸に噛みしめていた。

 エメルは静かに、床に落ちた金貨の一枚を拾い上げ、裏面の模様を眺めている。

「……この造幣技術、王国のものだ。見事だな……」


 だが、そのとき――兵の一人が駆け込んで来た。

「報告! 王妃と王子の姿が……見当たりません!」

 王は、微かに笑った。

 それは――希望とも、絶望とも取れる、老いた者の最後の意地だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ