44(畏怖)
王城の高殿に、かすかな悲鳴と死臭が届いていた。
それは城下で燻る戦火の様相。煙は遠く、だが確かにここまで届きつつある。
「……あの娘が、逃げおおせたと?」
マウリクス・バルハイム侯爵の額には血管が浮かび、声を潜めて怒りを噛み殺していた。
「……はい。混乱に紛れ、侍女が姿を見失ったと報告がありました」
報告する女官の声も震えている。
彼が口にするのは、幽閉されていた女──ネミナのことだ。
「どこだ……貴様ら、あの娘がどういう存在か理解しているのか……っ!」
だがマウリクスに言葉を続ける余裕はなかった。王城周辺にも戦火は及び、もはや国王軍は籠城するほか術がなかった。
重鎮アルデマン卿も討死。
指揮系統は乱れ、有力貴族の裏切りも明るみに出た今、兵の士気は瓦解寸前だった。
それでも──
深紅のマントをまとった王は、玉座に正しく座し続けていた。
壮年の王は、視線をひとときも揺るがせぬまま、唯一の王子を見据えている。
「……父上。我が身のことなど、お心にかけずとも結構です」
王子の声には、決意と覚悟があった。
その瞳には、敗戦国の王族に訪れる運命──すなわち、
「処刑」「国外追放」「人質としての幽閉」あるいは「見せしめとしての晒し者」という、幾つもの可能性が浮かんでいた。
「私が生きて捕らえられれば、きっと王国に泥を塗ることになりましょう。
ならば……この城で共に……」
王は黙ってそれを聞いていた。
そして一言、つぶやいた。
「……王子とは、生き残る責務を負う者だ」
王子は、呆然とその言葉を聞き返す。
それは王の命令か、あるいは、王家の呪いか。
王子は視線を伏せ、唇を強く噛んだ。
王子は王の言葉を胸に、自室へと戻った。
重々しい扉が閉まる音が響くと同時に、彼は椅子に腰を下ろし、顔を伏せた。
「では、どうする……」
しばし沈黙が支配した室内で、王子は何かを思いついたのか、はっと顔を上げる。
すぐさま立ち上がると、扉を開き、控えていた従者に命じた。
「財務卿、ヴァルド・レヒトンのもとへ通せ」
間もなくして、王子はヴァルドの執務室へ姿を現した。
「傍仕えは下がってくれ。少し、内密に話したいことがある」
その言葉に、室内の者たちはざわつきながらも退出する。
扉が閉じられたその瞬間、ヴァルドが顔をしかめた。
「一体、どのようなお話を?」
王子は慎重に言葉を選びながらも、何か重大な決意を告げた。
その内容に、ヴァルドの顔がみるみるうちに驚愕に染まる。
「ま、まさか! そんなことをなさらずとも、他にいくらでも道はあります!そのような極端な選択をなさらずとも」
必死に説得しようとするヴァルドに、王子は静かに指を口元へ立て、言葉を制した。
「……まだ決めたわけではない。ただ、万が一の備えとして、知っておいてほしい。これには多くのメリットもある。だが、これはあくまで“もしもの時”の策だ。いざという時には、貴殿を頼る。……そのつもりでいてくれ」
王子の碧眼の瞳は真剣だった。
「傍仕えの説得は私がする。だから……頼まれてくれ。一生の頼みだ」
ヴァルドは唇を引き結び、険しい表情のまま頷く。
「……少し、考えさせていただきたい」
王子は短く「頼んだぞ」と言い残し、静かに執務室を後にした。
***
王子が去った後、執務室には重い沈黙が残された。
ヴァルド・レヒトンは机に置かれたペンを手に取ったが、書くでもなく、ただじっと見つめる。
──王子は、時に突拍子もないことを言う。
幼いころから教育係として仕えてきたヴァルドにとって、それは日常だった。
型にはまらない考え方、突飛な発想。時に呆れ、時に感心し、時にその視点に舌を巻いたものだ。
だが、今回は違う。
命が関わる。覚悟がいる。
これは、単なる思いつきでは済まされぬ。
もしもその策を実行すれば、王に仕えてきた自分の矜持が問われる。
──いや、それだけではない。
王を裏切るという意味にもなりかねない。
ヴァルドは顔を伏せ、静かに息を吐いた。
(……だが、あの目だ)
あのときの王子の眼差しは、かつて幾度となく見てきたものだった。
彼が何かを決意したとき──それが裏目に出たことは、ただの一度もなかった。
あの少年が、己の信じた道を貫こうとする時、周囲の大人たちが思わず従ってしまうのは、決して偶然ではない。
(考えようによっては、これは王への忠誠を損なわずに済む……道にも、成り得るか?)
ペンを立て、インク壺に浸す。
その手つきには、迷いがありながらも、確かに何かが動き出した気配があった。
「……どう転んでもいいように、準備だけは……進めておくか。まずはマウリクス侯爵へ──」
ヴァルドは小さくつぶやき、机の奥に仕舞い込まれた羊皮紙の束に手を伸ばした。
***
その頃、王城ではもう一つの異変が起きていた。
「ベルド様が……いない?」
イシュメル教の神官・セリアスは、祭壇の裏へと駆けていた。
神官長──ベルド・メルドリスの姿が数刻前から確認されていないのだ。
だが、それはすでに真実だった。
ベルドはすでに王城を発っていた。数騎の精鋭騎馬隊と、数人の神官を連れて。
向かった先は、因縁の「ルクス教」の拠点。だが、ただの偵察ではなかった。
彼はそこに、言葉にできぬ「気配」を感じていた。
それは魔性すら帯びた異質な気……
まるで、「悪魔の代行者」を名乗る者の息遣いを感じたような──
目を背けたくなるほど、禍々しく、冷たい恐怖だった。
ベルドの喉奥に、無意識の呻きが漏れた。
「これはまさか……まずいぞ!!」
その眼前に聳えていたのは、かつて見たどんな聖堂とも異なる、災厄が放つ聖光の偽装に覆われた礼拝堂だった。
──運命は、もはや王城を通り越し、世界の重心そのものを変えようとしていた。