43(懸命)
薄明かりの差す石造りの小部屋に、薬草の乾いた香りが漂っていた。
ネミナは布にくるんだ薬草の束を、火鉢の上にそっと置く。立ちのぼる湯気に目を細めながら、彼女は 目の奥に鋼の意志を秘めていた。
まだ誰にも告げていない。
あの人——レオンの子を、自らの身に宿していることを。
胃の奥に重たい吐き気が滞留しているのを感じながらも、ネミナは平然と水を口に含む。つわりは朝が最も酷い。だが、それを見せた瞬間、彼女は「使える器」として幽閉者たちに価値を見出される。それだけは避けなければならなかった。
「ネミナ様、湯の支度が整いました」
木扉の向こうから、世話係の若い女の声がした。ローナという名前で年はまだ十五、六。無垢な目をしているが、観察力は侮れない。
「ありがとう、すぐに行くわ」
声を整えて応じる。吐き気を押し殺すように深く呼吸し、立ち上がった。
浴場へ向かう道すがら、ネミナは周囲を注意深く観察した。石壁の裂け目、小石の動き、兵の交代時間――幽閉されてからの数週間、薬師としての技術と冷静さを武器に、彼女はここから抜け出すための機会を虎視眈々と待ってきた。
そして、ついに昨夜、ルクスの兵が接近しているという報せが耳に入った。内戦の余波が、ここにも近づいてきている。
混乱は、彼女にとって唯一の追い風となる。
「ネミナ様、お顔の色がすぐれませんが……お加減でも?」
もう一人の世話係、ミラが訝しげに問うた。
「夜更けまで薬草の資料作成をしていたの」
ごく自然に微笑む。息を整え、脚を確かに運びながら湯殿に入る。これまでも顔色の悪さは睡眠不足という事にしてきた。
妊娠初期の不安定な体は、思いのほか重く、熱に敏感だ。湯に沈めた手首が、熱く、脈を打つ。
(この命を、絶対に奪わせはしない)
ネミナは湯の中でそっと自分の下腹に手を当てた。まだ膨らみも感じられない身体だが、反射的に腹部を庇うような挙動になってしまう。
(いけない……落ち着いて行動しなければ―――)
それを隠すため、自身の行動や所作を事前に想像し、なぞる。
だが、限界は近づいていた。
その夜、城の裏門に続く納屋で火が上がった。遠くで兵士の怒号が聞こえ、焦げた臭いがした。
(今しかない―――)
混乱に乗じ、彼女は予め用意していた外套と、わずかな薬包と資料を持ち出す。
ローナが気づく前に、ミラが警鐘を鳴らす前に、彼女は静かに扉を抜けた。
夜の風が、小麦色の頬を撫でた。青い瞳が薄闇に光を探す。
彼女の中で、ただ一つの目的が脈打っていた。
生きること。そして、命をつなぐこと。
ネミナは吐き気を催しながら、重い体を引き摺るようにして、懸命に足を東に向かわせていた。