42(雪恨)
王国軍北方戦線。
乾いた風が野営地の旗を揺らし、夕焼けが血のような赤に染まり始める。勝利の気配は大地に漂い、兵士たちの間に安堵と誇りが広がっていた。
将軍アルデマン卿は、戦地の丘の上に馬を止めていた。風に吹かれながらも、目を細めて遠くを見つめるその姿は、まさに“戦神”であった。
幾多の戦場を生き抜き、死に際まで見定めてきた老将の眼差しは、この勝利が単なる偶然でないことを誰よりも知っていた。
「…啓示は、また誤ったな?」
唇の端をわずかに歪めながら、独りごちる。
「ならば、さらに利用するまでだ。狂信者ほど、その策に嵌りやすい」
冷ややかな決意を胸に、アルデマン卿は兵を整え、反撃の芽を摘むための行軍を命じた。
だがその勝利の裏では、兵たちの間に、静かに“死”が忍び寄っていた。
最初は些細な咳だった。喉の奥が焼けつくように熱くなり、呼吸が浅くなる。
それが二、三日続くと高熱となり、翌朝には血を吐いて動かなくなっていた。
「…またか…あの者も…」
軍医たちは顔を見合わせ、互いの額に浮かぶ脂汗を隠すことができなかった。
駐屯地に蔓延しはじめたのは、かつての病――教団の預言者クリスが、メギル草を用いて鎮めた、恐ろしい疫病だった。
だが今、戦時下の補給は滞り、薬草の流通も途絶え、自生する時期もとうに過ぎている。
「神の裁きか、それとも…?」
兵士の一人が天を仰いで吐き捨てたその声に、誰も反論しなかった。病は進み、戦線に陰を落としてゆく。
その最中、アルデマン卿の元に新たな情報がもたらされる。
「教団残党が南の丘陵地に拠点を移し、啓示を再び得た模様。現地に不穏な集結あり」
老将は地図に視線を落としたまま、短く眉をひそめる。
「……まだ啓示を頼りにしているというのか? 教団は崩壊しつつあり、狂信者の多くは死したはず……」
しかし油断はしない。たとえ残党であれ、集結を許せば厄介になる。敵を叩くなら今、との判断のもと、自ら軍の中央部を率いて南下を決断した。
地図の上の駒は整然と動いたが、それらは――誰かに仕組まれた罠であった。
帰還の途上、王城方面より立ち上る紅蓮の火の手が、夜空を焦がす。
騎馬の蹄音が荒々しく駆け、使者が血相を変えて報告に現れる。
「卿! 本拠地内に裏切りが……! 王国軍の一部が反旗を翻し、敵へ通じております!」
「なに……裏切りだと?まずい!このままでは挟撃に……」
アルデマンは馬上で身を乗り出した。
あの拠点には、自らが登用した腹心がいた。完璧な布陣のはずだった。
混乱の中、突如現れる黒鎧の騎馬隊。鈍い青黒さを帯びた鎧は、月明かりの下でわずかに冷たく光った。その色は戦場で幾度と血に濡れ、酸化した鉄が長い歳月の中で育てた“死の色”だった。
その先頭に立つ男――かつての王国騎士、ダグラスが沈黙の中から現れる。
「ご機嫌よう、アルデマン卿。まさか、俺をお忘れではないでしょう?」
「……その顔、貴様……ヘルヴィン家の嫡子か」
「よくぞ覚えていてくださった。貴殿の命令で爵位を剥奪。家を焼かれ、家族を殺され、屍の中を這って生き延びましたよ」
ダグラスの目には憎悪と静かな誇りがあった。そして背後には、自身が鍛え上げた訓練兵たちと傭兵団が続いている。
「貴様が奪った命を……誇りを……俺は許さない」
アルデマンは短く目を伏せ、そしてわずかに笑った。
「ふん、復讐か。夢を見るのは自由だが、仇敵を倒すには、怒りよりも業が要るな。その震える手で、私が討てるのか?」
その言葉を残し、将軍は剣を抜いた。
「この震えは怯えではない…お前を斬り伏せられる歓びが、身の奥を満たしたまで」
その瞬間、アルデマン卿がダグラスへ斬りかかる。その一太刀は重く、鋭く、戦場を知る者の業だったが――
ダグラスの剣は、その重みを受け止め、返すように一瞬で首を跳ねた。幾度も幾度も、繰り返してきた想像を今、現実のものとした。
アルデマン卿の率いた騎馬隊は傭兵団によって殲滅されていく。
ダグラスは剣を下ろし、静かに背筋を正した。身に纏った甲冑がわずかに音を立てて揺れた。
彼はゆるやかに視線を落とし、剣の柄に右手を添える。その動きには、いかなる戦技よりも洗練された威厳が宿っていた。鍛え上げられた指が鷲の如く、鋼鉄の柄を包み込むように、静かに触れる。
「エリシア、父様、母様。成就致しました……」
低く、澄んだ声が響いた。火の粉が風に舞い、静寂が訪れた。
戦線は混乱を極め、王国軍は指揮官を失い、戦意喪失し始めていた。
戦場に、新たな風が吹き始めていた。
***
――その報せが届いたのは、数日後。
鍛冶師バロムは、愛弟子の眠る墓前で、しゃがみ込んで焚き火を焚いていた。
息子のように愛していたエルドは、アルデマンの偽報に騙され、志を抱いて出兵し、二度と戻らなかった。そのことが、頭から離れなかった。
「……ルクスの声が、導いたというのなら……なぜ、お前を救わなかった…?」
その背中には、かつて見せることのなかった翳――深い深い、悲哀の色が滲んでいた。
手は膝に置かれ、拳は固く握られている。だがその指先に、微かに震えがあった。頬には皺が深く刻まれ、ただ風に髪が揺れている。
火が薪を喰らうたび、赤い光が頬を照らし、また夕闇に飲み込まれていく。その繰り返しの中で、彼の影もまた、ゆらゆらと揺れていた。まるで何かを捜すかのように、過ぎし日の幻を追うように。
失ったものはもう帰らぬと知りながら、なお胸の奥底で手を伸ばし続けている。
不器用な男の、哀しみの在り処だった。