02(残響)
レオンは地べたに敷かれた藁に目をやる。もはや土の一部と化しており、隠し物が見つかることはなさそうだった。
冷たい石壁に背を預け、レオンはわずかな体力を温存するように身を丸める。
背中の傷は、まだ痛んでいた。
ハウルの振るう鞭の音と侮辱が、耳にこびりついて離れない。
だがレオンの瞳は、消えない。
もはや貴族の衣も誇りもない。だが、思考する力だけは、誰にも奪わせなかった。
石壁に囲まれた牢内は、糞尿にまみれた藁と鉄の錆びついた臭いに満ちていた。冷たい空気が足元を這い、囚人たちの咳や呻きがかすかに響いている。
鉄格子の向こうから、ギィ……と鈍く軋む音がした。見張りのハウルが、灯りを掲げて近づいてくる。手には鉄鍋と、歪んだ金属の器具——古びた鉄製スプーン。
「よう、薬師様ァ」
その声には、皮肉と嘲笑がたっぷりと含まれていた。
「今日からは掃除人だ!ははっ、名誉あるお務めだなぁ!」
ハウルは鉄格子を開けて鍋を放り投げた。水が跳ねて、レオンの足元を濡らす。
「鍋が汚ぇんだ。次に使うまでにピッカピカに磨け。光って俺の顔が映るくらいにな」
言いながら、スプーンをわざと音を立てて床に叩きつけた。レオンの目前に、カランと転がって止まる。
「お前のそのきれいな指先が、鉄の底まで磨き上げるとこを見てやるよ。ああ、ちょっと前は剣も握っていたって言うじゃないか? それが今じゃ鍋だ鍋、上等だなぁ!」
看守たちの嘲笑が、他の牢から漏れる下品な笑いと混ざる。
レオンはうつむいたまま、ゆっくりと手を伸ばし、スプーンを拾い上げた。錆びと傷にまみれたそれを指先で確かめながら、かすかに目を細める。
「……畏まりました、旦那様」
押し殺した声に、激情と計算がわずかに滲む。
ハウルは鼻を鳴らし、踵を返して去っていく。その背中を、レオンは一瞬だけ見据えた。目の奥に、わずかな光が宿っていた。
【4日目】
その夜、鉄格子の向こうでハウルが瓶を傾ける音がした。
ワインではない、安酒の香りが漂う。酒を口に含みながら、ハウルは言った。
「薬師様ぁ、またお掃除を頼もうかと思ったんだがよぉ……汚ねぇ鍋がなくなったから今日はお休みにしといてやる。せいぜい夢の中…舞踏会で踊ってろ」
(……また酒か)
レオンは、目を細めて暗闇を見つめた。
ハウルは夜番担当で、かならず酒を持ち込む。そしてそのあとしばらくすると、いびきが聞こえてくる。
レオンは床に横たわったまま、視線だけを持ち上げた。格子の向こう、壁に差し込む月の筋が、寝藁の端をかすめている。
飲み始めた時は、まだ左側の壁に寄っていたはずだ。
あれが中央を越えて右へ傾いた今、いびきをかき始めている。
時計などないこの牢でも、彼の目と記憶は揺るぎなかった。
三日連続だ。確信に変わる。
【5日目】
食事は、今日も水で薄めた豆の煮込み。
皿代わりの木の板が滑るように牢に差し込まれると、レオンはわざと派手にそれを倒した。
豆が飛び散る――だがその一瞬、ハウルが鉄格子を開けようと腰を浮かせたとき。
レオンは床に這いつくばりながら、その手元の錠前の構造を見ていた。
(見えた…中に、縦に並ぶレバー…四枚。形が少し違う)
古い鉄製のレバー式の錠。それぞれのレバーを正しい高さに押し上げれば、ロックは解除される。
つまり、レバーの高さと並び順さえ掴めれば――。
【7日目】
先の折れた鉄製のスプーン。それは、鍋底にこびりついた焦げを削るために貸し与えられたものだった。だがレオンは、その重さと形状から、別の用途に気づく。鍵の複製に必要な素材として。
この柄の部分を、石壁に押し当て、角で削って尖らせる。
夜の静けさに紛れ、彼は鉄を削る音を囁きに変えて作業を続けた。
スプーンの柄は細くなり、やがて鍵穴に差し込めるほどの太さになった。
さらに、食器を渡される木の板のささくれから、薄い木片を削り出す。
これを差し込んで、レバーの位置を探るための感触を得る。
【8日目】
夜、牢の中に冷たい沈黙が落ちる。
いつもどおり、鉄格子の外ではハウルが酒をあおっている。すでに半分、意識が朦朧としている様子だ。
レオンは床にうつ伏せになり、鉄格子の近くまでにじり寄った。
錠の真下に目線を合わせ、壁に身を寄せながら、慎重に。そして何度目かの挑戦として、手作りの“鍵もどき”を差し込んだ。
それは、数日をかけて先を尖らせ、少し曲げ、形を整えてある。
(カチャ…カチャ…)
棒を鍵穴にゆっくりと押し込んでいくと、何かが中で引っかかるのがわかる。
「……やはり、板が数枚ある。しかも、それぞれ少しずつ高さが違う」
レバー式錠――これは、鍵穴の奥に複数の金属の板が入っていて、それぞれの板を「ちょうどいい高さ」に持ち上げると開くタイプの古い錠だった。
つまり、ただ棒を押し込むだけではダメで、板ごとに「どれくらいの力で、どこまで押し上げればよいか」を感覚で探る必要がある。
ここで使うのが、もう一つの道具である、ささくれを削った木片だった。
それを先に差し込み、ほんの少し板に触れてみる。手に伝わる「重さ」や「引っかかり」で、おおよその高さを知る。
それを鉄の棒で再現しながら、順番に押し上げていく……。
ひとつ、またひとつ。指先に汗がにじむ。
彼の耳はハウルのいびきを確かに捉えていた。が、それでも油断はできない。
その隣の牢にいた男、トリスは、レオンをずっと横目で見ていた。
片目に傷を負った老囚人で、かつて盗賊だったという噂もある。
「まったく、何をそんなに毎晩カリカリ削ってやがるんだか……」
トリスはつぶやいたが、その口元はどこか笑っていた。
レオンの執念と静かな目には、ただの薬師以上の“何か”を感じていたのだ。
(……ま、成功するも失敗するも、面白ぇ話のネタにはなるか)
そんな彼も、誰よりも静かに耳を澄ませていた。
レオンが差し込んだ鉄棒が、とうとう“最後の板”を押し上げるその音を――。
【10日目】
その晩、豆にしては妙に塩味が濃いと気づいた。
酒のつまみとして、ハウルがあえて濃くしていたのだろう。案の定、夜半にはすでに看守のいびきが牢全体に響いていた。
レオンはゆっくりと身体を起こすと、壁際から削ったスプーンの柄を取り出した。
手は震えていた。空腹と、緊張と――しかしそれ以上に燃えていたのは、目的への渇望だった。
集中して耳をすますと、今宵も風が、夜の音を連れてくる。運ばれてきた草と土の香りが鼻腔を駆け巡った。
「……準備は整った。ここからだ、レオン。失った運命を、取り戻す夜が来た」
ラウルの心核を寝藁から取り出して傍らに置く。指で汚れを払い内部をのぞき込むと、言葉は一語一句違わずそこに残っていた。
「……行くぞ」
そして彼は、慎重に、鍵穴に匙の柄を差し込んだ。