32(予感)
処刑の喧騒の中、ネミナはただ静かに空を見上げていた。
どこか遠い日の空と同じ色をしていた。
──彼はきっと来る。
そう信じていた。
けれど、彼女はそれを心の底から願ってはいなかった。
「……来ないで、レオン……お願い、来ないで」
小さく、唇が震えながら呟いた。
もし彼がこの場に現れたら。
王政を裏切った罪人として、その命が奪われる可能性は極めて高い。
そうなれば、ネミナはきっと──自分の処刑よりも悲しみに堪えられなかった。
薬学に魅せられ、書物に埋もれながら過ごした日々。
その中で交わした知識と笑み、触れ合った指先。
──感謝こそすれ、恨みなどあるはずもなかった。
この命でさえ惜しくはないほどに、彼との記憶は自分を際立たせ輝かせた。
だから、たとえ彼が現れなかったとしても……それで、よかったのかもしれない。
だがその頃、刑場の最上段で事の推移を見つめていたのは、マウリクス・バルハイム侯爵だった。
処刑の混乱に眉をしかめながらも、視線はネミナから離れなかった。
「……まさか、あの男が姿を現さないとは」
バルハイムにとって、計画はもう一つの意味を持っていた。
邪魔な男――レオン(クリス)を処刑し、王家の法に反したという大義名分のもと、才色兼備のネミナを己の“侍女”として囲うこと。
その未来を疑っていなかった。
だが、彼が現れなかった今、女だけを処刑してしまうのは、あまりにも惜しい。
「……この混乱の中だ。処刑は後日に延期しろ。幽閉で構わん。──そうだな、城の南塔を使え」
バルハイムの命令は速やかに実行された。
ネミナは、縄をほどかれ、重苦しい視線の中、担架に乗せられるようにして処刑場を後にした。
***
城南塔・幽閉室
ほどなくして彼女は、装飾も家具も最小限の部屋に通された。
外出は厳しく制限され、食事も時間で支給される。
だが、寝具は清潔で、日が差し込む窓もある。
皮肉なほどに──生きるための最低条件は整っていた。
ネミナは静かに生活を始めた。
与えられた筆記具と紙で、かつての薬草知識を思い出すように書き綴る。
空になった食器の中に含まれる香辛料の種類を推測し、記録を残す。
だがある日、彼女はふと――
胸の奥に感じた違和感に手を当てた。
吐き気のような、でも、それだけではない。
思い当たる節が、ないわけではなかった。
「まさか……」
彼と過ごした、最後の夜。
城外の廃薬草園で、雨に濡れながら火を灯した実験。
その後の、心と体を重ねた、あの夜のことを。
それはただの情熱ではなかった。
互いの未来を想いあっていた時間。
彼女は、震える指で自らの腹に触れた。
それはまだ、確信と呼ぶには早すぎたが──
小さな命が宿っているという予感は、確かにそこにあった。
死ぬわけにはいかない。守らなければ。
この命は、殺される運命にあったはずの私に……与えられた岐路かもしれない―――
生を引き寄せるために、私はすべてを差し出す。
ネミナの瞳に、涙ではない一筋の光が映っていた。