30(悲愴)
処刑場は、沈黙に包まれていた。
灰鵜の体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
血に染まった灰色の布がはらりと舞い、石畳に叩きつけられる。
その手から滑り落ちた短剣が──
乾いた音を響かせ、地を打った。
カラン──
その刹那、
時間が宰相シグナス・ユリシオンの中で、砕けた硝子のように散った。
目の前の世界は、まるで水の中にあるように歪み、
音は遠く、重く、
視界は徐々に色を失い、過去が――記憶が――
溢れだした。
──かつて、差し伸べた手。
──初めて笑った夜、干し肉と薄い酒を分け合った火のそば。
──任務に失敗し、血を流して戻った彼を、怒鳴りつけながらも抱きしめた夜。
──「あんたには……借りがある」と、ぽつりと呟いた彼の横顔。
どれも言葉少なく、
どれも目を合わせることすら稀だったのに──
なぜだ、今になって、
こんなにも、こんなにも、思い出せるのか。
短剣が、石畳に落ちるその瞬間、
その音に重ねるように、シグナスは呟いた。
「……セト」
それは名だった。
誰にも告げぬよう命じた、密偵としての名の裏に眠る、
本当の、たったひとつの名。
背けなかった。
最後までその死を見届けた。
だが、その視界は──涙で歪んでいた。
(ありがとう……あの世で一杯やろう……)
風が吹いた。
どこか遠くで、鐘の音が鳴っているような気がした。
だが、誰も動かなかった。誰も声を上げなかった。
観衆はただ、血と煙と死に染まる広場で、沈黙を保っていた。
──その時。
「混乱はあったが……」
低く、獣のような声が沈黙を裂いた。
「死刑は……予定通り執行される」
将軍クレイヴ・アルデマン。
重厚な甲冑に身を包み、長身を誇る王国最高の武人。
その歩みは、石畳に甲冑の爪音を残しながら、粛々と進む。
衛兵たちが道を開けた。
シグナスの前に立つと、クレイヴは一礼すらせずに言った。
「シグナス・ユリシオン。反逆と王命への不服従により、貴殿の命を断つ。……我が剣で、潔く終えよう」
その刃──
紅と銀に煌めく将軍の長剣が、宰相の白き髪に、喉元に、一筋の冷たい光を描いた。
斬風。
その瞬間、シグナスの首と銀髪が、宙を舞う。
その表情には、確かな悲愴が刻まれていた。
民のために選び、愛した国。
守るために犠牲を重ねた政。
そして、何よりも──彼を失った哀しみ。
それを一滴残らず湛えたまま、
宰相の首は、地に落ちた。
──再び、沈黙。
血が静かに石畳を濡らす。
白と灰色とが、赤に染まる。
処刑場にはただ風が吹くばかりだった。
宰相と密偵──
名を呼び合うことすらなかった主従。
だが確かに、彼らの間には、
誇りと、信頼と、絆があった。
今、それは、血に沈み、地に横たわっている。
「ネミナも……殺されるのか……?」
民の誰かが、ぽつりと囁いた。
だが誰も、彼女の姿を見ようとしなかった。
恐れと不信とが入り混じる沈黙の中、ただ兵たちは周囲を警戒する。
「レオンは……?まだ現れないのか……?」
櫓の衛兵たち、騎馬の音も、レオンの姿を探していた。
だが、まるで気配が感じられない。
闇のような時間が、広場を支配していた。