29(忠誠)
宰相の密偵として動いていたその男は、「灰鵜」と呼ばれていだ。
色の抜けた羽をまとい、湿地に生きる不気味な鳥。
吉兆にも凶兆にもなれず、ただ静かに生と死の狭間を這う者。
祝福とは無縁の名──だが、フードの男はその呼び名を否定しなかった。
それは彼の生き様そのものだったからだ。
***
処刑の朝、空は重い鉛色の雲に覆われていた。
シグナス・ユリシオン。
王に次ぐ重責を担うその男が、粗末な杭に縛られ、晒されていた。
その威厳はなお失われてはいなかったが、目には疲労と諦念の色が浮かんでいた。
そして、処刑吏の斧が上がる──その瞬間、
叫びの中、煙を裂いて現れたのは、一人の男だった。
全身灰布に包まれ、目だけが鋭く燃えていた。
「誰だ、あいつは……!」
「灰鵜……! あの男、まだ生きて……!」
誰かが震える声でつぶやいた。だがその声も、次の瞬間には戦慄へと変わる。
灰鵜は、無言だった。
斬る。突く。斬る。──喉、胸、鎧の隙間。すべてを熟知した殺戮の技。
彼の目的は一つ。
宰相を、守る。
背に迫る槍の穂先を、振り向かずに躱す。
膝を斬られ、倒れそうになりながらも、牙のような短剣を突き立てる。
──その瞬間、
矢が、胸を貫いた。
ぐらりと体が揺れた。息が漏れる。
だが、膝をつかない。
「まだ……まだだ……!」
呻くように吐きながら、足を前に出す。
前に。宰相の前に。
二の矢、三の矢が背に刺さる。
だが灰鵜は、叫びながら短剣を振るった。
「近づくな……!!」
傷ついた獣の咆哮のようだった。
それは悲鳴ではなく、願いだった。
せめて、この人だけは……!
衛兵たちは怯んだ。
男はもはや人間ではなかった。
血にまみれ、足を引きずり、息も絶え絶えなのに、それでも斬ってくる。
まるで鬼神のようだった。
──その時、処刑場の門が開かれた。
金と赤の外套をまとった近衛長が現れた。
剣を引き抜き、一言だけ告げる。
「……汝、我が誇りと名誉に仇なす者。討ち果たす」
一閃。
その刃が、灰鵜の胸を斬り裂く。
膝が砕け、手が短剣を落とす。
それでも──灰鵜は顔を上げていた。
最後の最後まで、宰相の方だけを見ていた。
声は、もはや風の中に掻き消えそうだった。
「……これまで……か……」
──そして、崩れ落ちた。
その背を、宰相シグナスは見つめていた。
声は届かず、手も伸ばせなかった。
まなざしが向かい合い、彼の名を呼んだあと、
ただ、目に見えぬ何かを呑み込むように、静かに口を閉じた。
灰鵜は、表向き名前を持たなかった。
民に知られることも、墓標を与えられることもない。
それでも確かに、
この王国に一人、忠誠を尽くした英雄がいた。