25(喪失)
“鳥かご”とは、宰相シグナスが用意していた、王政に翻弄された者たちのための最後の避難所である。
古の離宮。誰も近づかない森の奥にあるその場所は、修繕され、薬草や保存食、書物などが運び込まれていた。
そこに、レオンとネミナを送り、穏やかに暮らさせる。…それが彼の理想だった。
だが、肝心のネミナが姿を消していた。
家はもぬけの殻。宰相の密偵が残したのは、燃えた紙束と、焼け焦げた草の香り。
実のところ、ネミナはすでにマウリクスの命で囲われていたのだ。
かつて、レオンとネミナは共に薬師の家系に生まれた。二人は両親を早くに亡くし、学舎ではお互いを支え合っていた。
その絆を「かつての恋」と語る者たち。
だが真実は、誰も知らない。
***
シグナスの密命を受け、フードの男が動いていた。
レオンの監視を中止し、マウリクスの囲いの下にあるネミナを探し出す。屋敷の周囲を探るも、警備は鉄壁。
「……ここまでは、見張りを潜れる。だが、あの女の部屋には近づけん」
フードの男は一度引き、報告を上げた。だが、シグナスの決意はすでに揺るがなかった。
***
夜。シグナスの私邸。
静寂の中、シグナスは鏡に映る自分を睨んでいた。
「このまま、見過ごすなど……私が私である意味がない……!」
机の鍵を開けると、中から封蠟された私兵の命令書が現れる。
「今から行くぞ、ネミナ。ここには、お前とレオンが生きられる場所がある。……私は、それを守りたかった」
彼は静かに私兵を招集し、夜の闇へと溶けていった。
***
奪還作戦は果敢に行われた。
ネミナは屋敷の奥で、窓のない部屋に座っていた。
老いた身体に鎧を纏い、わずかばかりの私兵を率いてマウリクスの離宮へと向かう。月光の下、彼らは静かに潜入し、ネミナのいる居室へと迫った。だが──
「見つけたぞ、宰相!」
剣戟の音が鳴り響いた。伏せられていた衛兵が、宰相の動きを先んじていたのだ。誰かが密告したのだ。思考が追いつく間もなく、私兵は散り、シグナスは捕らえられた。
「ネミナは……どこだ……!ネミナだけは……!」
その叫びも虚しく、彼女は王命により別室へと移され、接触すら叶わなかった。
かろうじて、唯一逃げ延びた影があった。
──フードの男。
かつて宰相から「鳥かご」の話を聞かされていた寡黙な従者。混乱の隙を突いて、壁を乗り越え、肩を裂きながらも命からがら脱出した彼は、馬も使わず森を抜け、ただひたすら走った。血に濡れた布を噛み、痛みに呻きながら向かった先──それはレオンのもとだった。
荒れた風が吹きつける丘を越え、フードの男はようやくその門へ辿り着いた。ルクス教―――その拠点に。今は巡礼者や信徒たちが方々から集まり、祈りの歌が絶え間なく響いている。
しかし、異分子の気配は敏感に察知される。
「……誰だ、あれは?」
「民ではないぞ。……なんだこの男は……?」
「啓示に、こんな者の出現はなかったはずだ!」
ざわめきが周囲を満たし、門前の信徒たちは不安と興味の入り混じった目で男を取り囲む。私兵が何人も駆け寄ってきては、訝しげに男の姿を見上げ、誰からともなく口々に言った。
「クリス様に、ご報告した方がよろしいのでは……?」
「そうだ、これは異例の事態だ。私たちでは判断できん!」
騒然とする中──
「静まれ!」
鋭い一喝が響いた。群衆が割れ、重装の私兵団が姿を現す。その中央、鉄の鎧を着た男──私兵団の統括ダグラスが、鋭い目でフードの男を見据えた。
「貴様……知っているぞ。教団が内々に注視していた男……灰鵜だな。……一緒に来い。クリス様のもとへ案内してやる」
フードの男は黙して頷いた。抗うそぶりもなく、その身を委ねる。
周囲の警備兵たちは、警戒の手を緩めることなく男の周囲を囲み、静かに一歩一歩を進めていく。白く磨かれた石の回廊を抜け、内部へと導かれていくその姿を、民衆は祈るように、あるいは恐れるように見守っていた。
礼拝所の奥、閉ざされた扉がゆっくりと開いた。
そこには一人の男が佇んでいた。
絹を織り交ぜた白の法衣に身を包み、肩にはルクスの紋章。その背には崩れぬ威厳が宿っていた。
──レオン、いやクリスが。
神の啓示を受けるとされる“ルクス教”最高指導者。宰相が手塩にかけた存在。
「……それで?」
低く、硬質な声が響く。
「この男が、突然現れたと?」
フードの男は無言のまま、クリスの前まで歩み出た。フードの奥の双眸がクリスを射抜く。
「……貴様のせいで、宰相が捕まったよ」
その一言に、空気が変わった。周囲に控えていた私兵たちがざわつき、手にした槍を握り直す。
「……何?」
「シグナス様だ。あんたの愛する女──ネミナを助けるため、命を懸けて動いた。そのせいで“裏切り者”の汚名を着せられ、今ごろは牢の中だろう」
クリスの眉が、ぴくりと動いた。しかし、それは怒りでも焦燥でもなかった。ただ、微かな困惑。
「……ネミナ?誰だ、それは」
その言葉に、フードの男はまるで心臓を撃たれたかのように、わずかに後退した。信じられないという目をして、絞り出すように口を開く。
「じょ、冗談だろう……?お前が、どれだけの時を過ごし、どれだけの想いを、言葉を彼女にかけていたか……シグナス様がどれだけ“お前たち二人”を思っていたか……」
「私は……誰の命令も受けていない。その女の名も覚えていない。……少なくとも、今の私にはそのような記憶はない」
クリスは静かに言った。その声音はあまりにも冷たく、あまりにも静かだった。
「……君は、私に何をして欲しいのだ?」
その問いに、フードの男は言葉を失った。
沈黙が、神殿を満たす。
ルクスの光の下、運命の歯車が音もなく狂い始めていた。
そして、“裏切り者”の汚名を着せられたシグナスの処刑の日は、近づきつつあった。
それでもフードの男は、拳を握った。まだ終わってはいない。命が残っている限り、守るべき人のため、戦う意味は残されている。