20(光道)
夜の帳が降りる頃、セントラグラ北部の外れに位置する旧鉱山地帯。月は欠け、星は雲に隠れていた。その闇の中、ひときわ目立たない影が、沈黙のまま瓦礫の裏を這うように動いていた。
男はフードを深く被り、顔をほとんど見せない。痩躯ながらも無駄な動きは一切なく、身のこなしは訓練された者特有の静謐さを帯びていた。衣服は濃灰の粗布で編まれ、どんな光にも反射せず、夜闇と一体化している。その眼光だけが、闇の中で僅かに光を宿していた。瞳孔は獣のように鋭く、冷たい知性が宿る。
男の視線が一点に固定される。
老朽化した建物の裏手、雨避けの庇の下で、数人の人影が小声で語らっている。火は使われておらず、灯りもない。男は視線だけで人物を特定した。
「……確認。レオン、現地にて活動中。拠点変更、確定」
声なき口の動きが、誰にも知られることなく情報を発する。
男はそのまま引き返すことなく、なおも暗がりの中に潜み続けた。レオンが仲間たちと何を語っているのか、その言葉すらも拾うつもりだった。かすかな風の動き、砂のこすれる音、靴の重心移動から判断する彼の集中力は、尋常ではない。
しかし、彼の思考の一部はすでに、次なる任務へと向かっていた。――報告の伝達だ。
数時間後、男はセントラグラ城内、誰も近づかぬ宰相の私室の扉を、闇にまぎれて叩いていた。
壁には重厚な緋色のカーテンが垂れ、部屋の空気は乾いている。鉄製の香炉からは甘く重い香が漂い、目を覚ました理性よりも、夢の中に誘うような酩酊を呼び起こす。
宰相シグナス・ユリシオンは書架に囲まれた机の前で、筆を動かしていた。その筆先が止まる。
「……来たか」
声はかすれていたが、確かな威厳と底知れぬ老練さを含んでいた。
フードの男は、音もなく床に跪く。顔は上げぬまま、静かに言葉を紡いだ。
「報告。レオン・ノマレス、鉱山廃村にて活動中。複数名と共に移動。拠点の構築はほぼ完了と見られる。民への接触あり。〈黎明の光〉を名乗り、何らかの組織形成を行っている模様」
宰相は目を細め、椅子の背にもたれた。
「……ひとまず無事だったか。では、“鳥かご”の用意も早めねばなるまい。」
「……指示は?」
「しばし様子を見ろ。レオンの周囲に、どんな思想が集まり、誰が彼に従っているか。お前の目で確かめろ。――まだ、準備が整っておらぬ」
「……はい」
「それと……レオンの意思に“迷い”があれば、説得したい。方法は……考えてある」
宰相の指が、机の脇に置かれた小箱を叩く。フードの男の目がわずかに動いた。そこには、ひとりの女性の肖像画があった。淡く、やさしげな微笑。静謐で控えめな美しさと、知的な気品を兼ね備えた横顔。
(……まだ、生きていたか)
男は何も言わなかった。ただ、再び身を翻し、音もなく部屋を出て行った。
夜の帳が再び男を飲み込む。そして、静寂だけが残った。宰相の口元に、微笑が浮かぶ。
「レオンよ。逃れられる可能性は、少なからずある。辛抱してくれ」